今日は、正午からトレーナーと筋トレだった。
最近、トレーナーは僕にあまり高重量を挙げさせない。
その代わり、軽いウェイトで丁寧にゆっくりやらせる。
その方が成長ホルモンを出すには有効らしい。
その後、マッサージに行くつもりだったのだが、
新型肺炎の影響で20日まで店が休み、ということで、
午後は、家で、読書をして過ごした。
ソファに足を伸ばし、コーヒーを飲みながら、
英文法の本と、張賢亮の小説と、エッグハルトを読む。
こういう心地よい時間はまた、神に在る時間でもある。
神に在る時間とは、今に対する抵抗が起きない時間だ。
そういう、心が比較的落ち着いていて穏やかな時は、
思考をただの思考として見過ごすことも容易にできる。
たとえ、仕事で大問題に直面していたとしても、
明日の支払いに四苦八苦していたとしても、
四六時中、人間関係の事ばかり考えていたとしても、
ほんの短い時間でも、それらのことを忘れて、
今の自分ができる範囲で心地よい事をするのは可能だ。
例えば、カフェでコーヒーを飲みながらぼーっとしたり、
大好きな歌手の歌を聴いたり、散歩をしたりする。
一日のうち、それくらいの短い時間なら、
いま、直面している問題を忘れ、
ほっこりと、平安いることができるはずだ。
とりあえず、その時間だけは、いまにいて、
そのコーヒーや歌に抵抗せずに過ごすのだ。
それが、ここに在る神を受けいれるということである。
ほかの時間は思い切り悩んでいてもいいから、
まずは、少しでいいから、神を感じる時間を作ること、
そして、神を感じるとは、いま、ここに在るコーヒーや
テレビ番組や、木々のさざめきを感じるということだ。
だって、海でおぼれているとき、助けてーっ、と、
手足バタバタで、ギャーギャー暴れ回っていたら、
救助隊(聖霊)だって、救助のしようがないのと同様、
人生の嵐の真っ最中な時だからこそ、
溺れまいと、ばたつかせている手足の動きを停める。
そうして、一瞬、僕たちが神の方へ向いた隙に、
救助隊は、さっと僕たちを救い上げるのだ。
こうなると、だんだん、
助けてーっ⇒ て、誰が助かるん?⇒ 誰もおらへん⇒
考えだけが出てる⇒ 思考だけが湧いてるだけやん⇒
世界も思考や⇒ なに?この愛の感覚⇒ 神やん!
⇒これも、あれも全部神やん⇒ うわ、神がおる⇒
自分も神と同じものやったんや⇒〝それ〟が自分や
となり、問題だと思っていたものも自然と溶けてゆく。
(と思う。多分…)
心地よいついでに、久々に瞑想をしてみた。
結果、爆睡。
ああ、法悦…。