今日は、あの…、あの…、恐怖の部門長会議であった。
正確には、元恐怖の…、というべきか。
まあ、スカイプ参加とはいえ、大勢の前で発表するので、
ドキドキビュンビュンは、あるにはあるのだが、
間違いを指摘されたり、責められたりする恐怖から、
わなわなとテンパってしまう、みたいなのは無くなった。
なぜなら、兄弟が愛以外のものであるはずがない、
と心底理解しているのと、それになにより、
愛である兄弟から責められることが起きるのなら、
よろこんで思う存分責められます、というような、
ドM感覚に似た〝法悦〟が根底にある。
それで、僕は、ハタと気づいたのだ。
何かにテンパったり、ギンギンにちょちょ舞ってる時って、
ちゃんと、今、この瞬間にいれている、と…。
どういうことかというと、
例えば、
厄介で急ぎの業務メールが、どわーっと来て、
一つ一つに必死で返信を返しているときとか、
会議の直前になって資料の不備が発覚し、
あと10分で修正しなければならないときとか、
仕事のクレームが退社時間ギリギリに入り、
頭をフル回転させながら、対応策を講じているときって、
ちゃんと、いま、この瞬間に集中できている。
これまで、僕は、焦ったり緊張する状態というのは、
どこか無意識状態で、自分を見失ってる状態である、
と思っていたが、よく考えると、テンパってる時って、
それ以外の事を考える余裕など全くなく、
その問題に一点集中しているので、
過去でも未来でもなく、
いま、ここに在る問題に取り組めている。
そして、そのテンパってる元凶である問題こそが、
今この瞬間に在る神なのである。
なので、こういう非常に緊張する場面に直面した時、
逆に、とことん、思い切り、テンパってみるのも手である。
最も恐れているものの中へ、ぎゅーっと入ってゆくと、
実はそれは神だった、となったりするからである。
僕たちは、自我を恐れてテンパっているのではなく、
本当は神を恐れていたのだ。
そのことに気づくことで、
神を恐れながら、神を求める、という、
世にも奇怪なことをしている自分にも気づいたりする。
だから、ガチガチにテンパることは悪いことではない。
テンパっている自分をバシバシバッシングする必要もない。
究極にテンパりまくることで、今に在ることができ、
いまここに在る神が見えてきたりするからだ。
その、いまここに在る神への抵抗を止めることで
神を思い出してゆく。
というわけで、兄弟よ、
安心して、思う存分テンパるのだ!