コロナウィルスの影響で、定時に帰れるようになり、
(って、昔から定時で帰ってるやろ by元コンババ部長)
毎晩、自宅までの帰路を楽しんでいる。
僕は香港の渋谷、コーズウェイベイに住んでいるので
(おーほほほっ!)街も通りも、オシャレで華やかである。
これまでは、スーパーで、ささっ、と買い物を済ませると、
そそくさと自宅へ直行していたのだが、最近では、
ヴィクトリア公園でバスを降り、ゆったりとした足取りで、
今、ここに在る風景の中に、神の愛を感じながら歩く。
このように、
今、この瞬間に在る神そのものとなって過ごしていると、
固定された世界が横へ流れて行くような時間感覚から、
無数の世界を縦に貫くような時間感覚へ移行を始める。
そうなると、周囲の風景や人々が、芸術作品のように、
美しく、完ぺきなものとして映し出されてくる。
比喩ではなく、本当にそのように見えるのだ。
建物も、風景も、道行く人々も、商店や街並みも、
形態的には、以前と何ら変わっていないのに、
自我を反映させて見るか(時空を横軸で見るか)、
神を反映させて見るか(時空を縦軸で見るか)で、
こんなにも世界が違ってくるのか、という事実は、
僕に新たな感慨をもたらしてくれた。
〝神〟という一つの解釈だけを通して世界を見ることで、
この幻想の世界も、全一なものとして解釈され、結果
何を見ても同じ一つの〝愛〟として感じられるのだろう。
じゃあ、どうすれば、世界が神の反映として見れるのか、
という話になるのだが、それにはまず、
意識を、いま、この瞬間に戻す、ことが重要になってくる。
過去でも、未来でも、妄想劇場の中でもなく、
いま、ここに在る平安を見るようにするのだ。
もうひとつは、絶対に自分を責めないこと。
悪いのは自分かも、自分が間違っているのかも、
と感じたら、即刻、いやいやいやいや、
神と同じ神の子である自分が間違ってるわけがない、
と食い気味に否定してやることだ。
例えば
「あれ?ちょっと太ったんじゃない?」
と、ナイスバディから言われたとすると、
いやいやいやいや、お前がやせすぎなんだよ、
くらいの勢いでやっちゃっていい。
そして最後は、自分の全てを赦してやることだ。
赦しに慣れていないうちは、
赦しのなんちゃらステップ、なんかは一旦わきに置き、
「私は赦す、赦す、赦す。ただ全てを赦す、赦す、赦す。」
と、ひたすら心の中で唱え続けるだけでいい。
僕も初期の頃は、
次々と強烈な赦しの機会がやってくる会社の中にあって
まず認識し、決断の主体へ戻り、聖霊に明け渡し…、
なんて悠長なことなど、やってられなかった。
なので、逆に、ただ唱えるだけの方が、
シンプルで赦し易かったりするのだ。
とまあ、こんな感じで、今日も終わる。