昨日の記事で、
見えるもの全てが美しい、という話をしたが
いま、この瞬間に在る神に気づく、とは、
日常の中の、ごくありふれた風景や、物や、人の中に、
完璧な美しさを見出すことでもある、と気づいた。
というのも、
今日、エドワードが申請してきた出張旅費を支払うため、
金庫の中のお札を数えていた時、先日ブログでも書いた
チャーター銀行が発行した新品の50ドル札が出て来て、
改めて見ると、やっぱり美しかったので、エドワードに、
このお札きれいだよね、と言って出張旅費を渡した。
「えっ、別に普通のどこにでもある50ドル札だけど。」
と彼は言った。
彼の反応を見て、ああ、そうか、と気づいた。
今、ここに、空気のように存在している神に気づくには、
ある種の神に気づく〝感性〟が必要なんだ、と…。
折れ曲がった歯磨き粉のチューブ、枯れかけの花、
置きっぱなしの洋服、100均で買ったコーヒーカップ、
パートナーのおはよう、という一言、LINEのスタンプ、
部屋の中に入ってきた蜂、ハゲおやじの後頭部、
工事の騒音、同僚からのお疲れ様と書かれたメール、
普段、当たり前に見過している物事の中に、
〝神の美しさ〟が潜んでおり、それを見出すことが、
神に気づく、ということになる。
汚い、気持ち悪い、ありふれてる、鬱陶しい、面倒だ、
と思えるようなものの中にもまた、
〝神の完ぺきな美しさ〟は宿っている。
表面だけではなく、いま、この瞬間に意識を戻して、
ようくようく見てみると、ずっと変わらずそこにあった、
完璧な不変の美しさに気づけるはずである。
心ここに在らず、とはよく言ったもので、僕たちは、
処理する、こなす、手配する、算段する、戦略を練る、
ことに忙殺されるあまり、眼前にある景色を無視して、
ぱぱぱ、と〝うわずる〟ように今を流して生きている。
いま、この瞬間、自分の周囲にある、
ありふれたものの中の美しさに気づくことで、
神へと戻ってゆく。
そうすると、何の変哲もないテーブルが神になり、
電車で向かいに座っているおばちゃんが神に変わる。
そして、それこそが、
ひとつの解釈で見る、ということの真の意味である。
さあ、いまから、鏡に自分の全裸を映して叫ぶのだ!
「わたしは、美しい…。」(👈そっちじゃなーいっ!from 兄貴)