香港さんといっしょ! 奇跡講座(ACIM)と純粋非二元

欲望都市香港で奇跡講座を実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

わたしは美しい

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昨日の記事で、

 

見えるもの全てが美しい、という話をしたが

 

いま、この瞬間に在る神に気づく、とは、

 

日常の中の、ごくありふれた風景や、物や、人の中に、

 

完璧な美しさを見出すことでもある、と気づいた。

 

 

というのも、

 

今日、エドワードが申請してきた出張旅費を支払うため、

 

金庫の中のお札を数えていた時、先日ブログでも書いた

 

チャーター銀行が発行した新品の50ドル札が出て来て、

 

改めて見ると、やっぱり美しかったので、エドワードに、

 

このお札きれいだよね、と言って出張旅費を渡した。

 

「えっ、別に普通のどこにでもある50ドル札だけど。」

 

と彼は言った。

 

 

彼の反応を見て、ああ、そうか、と気づいた。

 

今、ここに、空気のように存在している神に気づくには、

 

ある種の神に気づく〝感性〟が必要なんだ、と…。

 

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折れ曲がった歯磨き粉のチューブ、枯れかけの花、

 

置きっぱなしの洋服、100均で買ったコーヒーカップ、

 

パートナーのおはよう、という一言、LINEのスタンプ、

 

部屋の中に入ってきた蜂、ハゲおやじの後頭部、

 

工事の騒音、同僚からのお疲れ様と書かれたメール、

 

普段、当たり前に見過している物事の中に、

 

〝神の美しさ〟が潜んでおり、それを見出すことが、

 

神に気づく、ということになる。

 

 

汚い、気持ち悪い、ありふれてる、鬱陶しい、面倒だ、

 

と思えるようなものの中にもまた、

 

〝神の完ぺきな美しさ〟は宿っている。

 

表面だけではなく、いま、この瞬間に意識を戻して、

 

ようくようく見てみると、ずっと変わらずそこにあった、

 

完璧な不変の美しさに気づけるはずである。

 

 

心ここに在らず、とはよく言ったもので、僕たちは、

 

処理する、こなす、手配する、算段する、戦略を練る、

 

ことに忙殺されるあまり、眼前にある景色を無視して、

 

ぱぱぱ、と〝うわずる〟ように今を流して生きている。

 

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いま、この瞬間、自分の周囲にある、

 

ありふれたものの中の美しさに気づくことで、

 

神へと戻ってゆく。

 

そうすると、何の変哲もないテーブルが神になり、

 

電車で向かいに座っているおばちゃんが神に変わる。

 

そして、それこそが、

 

ひとつの解釈で見る、ということの真の意味である。

 

 

さあ、いまから、鏡に自分の全裸を映して叫ぶのだ!

 

「わたしは、美しい…。」(👈そっちじゃなーいっ!from 兄貴)