コースの学習者が、赦しを実践し、神に繋がってくると、
幻想の世界が聖霊によって優しい絵に差し替えられる。
本当に世界が優しく、愛そのものに感じられてくるのだ。
具体的に言えば、
これまで大嫌いだった人が、大好きな人になったり、
苦手だと思っていた人が、自分の味方になってくれたり、
自分がやりたいと思っていたことができるようになったり、
と、人生がとても愛と感謝に満ちたものになる。
しかし、奇跡講座の勉強会やリトリートで、
「赦しをしていると世界が愛そのものになりました。」
なんてシェアをすると、間髪入れずに発せられるのが、
私たちは、外の世界をよくするために、
コースを学んでいるのではないんですよ、という一言だ。
ごもっともである。
僕たちは、この夢の世界を終わらせ、
父が待つ故郷へ永遠に帰還するために学んでいる。
それには、
この夢の世界を放棄することが必要になってくる。
しかし〝神が在る〟だけが真実だと体験するにつれ、
嫌でも、夢の現実がよくなるのもまた事実である。
そして、その幸せを天国の神の愛の反映として、
素直に受け取り、歓んでいるのが赦した状態なのに、
そうはならず、そんな世界は無いんですよ、と、
自我の世界を否定するその延長線で、
そこへ反映されている神までもを無いものにしてしまう。
まあ、そこには、学習者が自我に警戒しなくなり、
他の引き寄せスピなどと混同してしまうことを警戒した、
教師の〝親心〟あるのかもしれない。(!笑!)
僕は、
お金がたくさん入ってきた、最高の恋人に出会えた、
仕事で大成功を収めた、など、現実が良くなったら、
「やったあー、ラッキー、神様、ありがとう!!」
くらいの軽い気持ちでいていい、と思っている。
現実が良くなったその結果に対してラッキーなのではなく
お金が入って嬉しい、という、いま、この瞬間に感じる、
幸せな〝想い〟を、神の愛としてフォーカスしている。
そして、この幸せな思いに抵抗しないでいると、
それが呼び水となって神の愛がわわわ、と延長される。
それになにより、まだ先があるんですよ、なんて、
野暮なことを言わなくても、何が実存で何がそうでないか
コース兄弟なら、深いところではちゃんと解かっている。
赦しは、辛さや苦しさの中で成されるものではない。
辛さや苦しさの中では、何も赦せない。
なぜなら、つらい、と感じてしまった時点で、
無いはずの苦しみを実在化させてしまっているから。
神の愛を知ったいまなら断言できる。
たとえほんの少しでも、
辛い、と感じながらする赦しは、自我だ。