もう一か月以上出張してない。香港からも出てない。
お籠り大好きな僕としては、チョーハッピーなのだが、
ただ、一日中デスクに座って仕事をしているせいか、
夕方頃には足がふやけ、階段もまともに降りれなくなる。
これはヤバい、と思い、毎日弁当を買いに出たついでに
ウォーキングがてら、少し遠回りをして戻ることにした。
こうして、いまここに在る風景の中を歩いていると、
普段なら気にも留めずに通り過ぎるシーンの一駒一駒が
美しい芸術作品のように、色とりどりに息づいて見える。
消火栓の形、ビルのタイルの模様、道行く人々の流れ、
もう完璧に調和してここに存在している。
こういう状態はすでに数か月続いていて、その間、
毎日何度も数字のぞろ目を見る。
今思えば、この現象は、自分責めをやめたことと、
いまに抵抗しなくなった頃から始まったような気がする。
なので、周囲の人や風景が優しく愛に見えているときは、
ああ、ここに神が在るのだな、と思っている。
「この、あると思っている罪悪感を取り消して下さい。」
「どうすればいいか、今の私に解るように教えて下さい。」
「私には何も分かりません。あなたに全託します。」
「信じない。同意しない。存在しない。ゆえに罪はない。」
僕が昔、みぞうちの〝ドびゅんびゅん〟に襲われ、
赦しを実践する際、心の中で聖霊に叫んでいた言葉を、
過去の記事から適当にいくつか抜き出してみたのだが、
なんていうか、もう、いまでは、
「か・み・さ、まぁーっ!神さまあーぁっ!かみいぃーっ!」
の大絶叫だけで完結してしまっている。
こうやって過去の記事を読み返してみると、
その都度、聖霊に祈って赦しを実践していたころは、
個人の私が、聖霊に何かをお願いしているという感じで、
なんか、すごく必死、というか、かなりキツそうだ。
それでも、大気圏突破中の自分はよく頑張ってたな、
と、その頃の自分をとても愛おしく思えた。
例えば、
寝る、というのなら〝寝る〟だけでいいのに、
明日の朝早いから寝る、疲れないために寝る、
という解釈をいれてしまう。
それと同じく、神というなら〝神〟だけでよくて、
特に、僕みたいに単純な人間は、
すごく動揺した時や、悲しくてやりきれない時、
うまくいかなくてどうしようもない時など、
いちいち、心の中で祈りの言葉をつぶやき続けるより、
〝かみさ、まあああぁぁーーっ〟と絶叫していた方が、
ピーンと神の方へ戻っていきやすい。
それでも、ただひとつ断言できることは、何経由であれ、
必ず最後は神に行きつく、ということである。