香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

わたしはまだまだ

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最近ふと思ったのが、ひょっとして僕たちは、

 

赦しの実践、というツールを使って、無意識のうちに、

 

天国への帰還をわざと遅らせているのではないかと…。

 

 

〝まだまだ、自分には赦すべき幻想がたくさんある〟

 

〝まだまだ、こんな自分が神になど至れるわけがない〟

 

〝まだまだ、自分には時間が必要だ〟

 

〝まだまだ、自分は罪悪感を信じている〟

 

そう思うことで、

 

〝ああ、よかった!まだ帰らなくていい。〟

 

と、安心していられるからだ。

 

 

今すぐ、父が待つ故郷へ永遠に帰還できる、となったら、

 

〝いやいや、ちょっと待って、今はまだ…〟となるのに、

 

それが10年後だったら〝ああ、それなら安心〟となる。

 

天国へ帰還するために赦しを実践しているのに、

 

今、ここに天国がありますよ、さあ、帰りましょう、

 

と言われると、私なんかまだまだ、となってしまうのだ。

 

要するに、いま、ではなく、神に対する心の準備が整い、

 

〝はい、今ならいいですよ〟と自分が合図を送った時に、

 

帰りたい、と思っている。(笑)

 

 

この〝私なんてまだまだ〟意識が根底にあると、

 

どんなに赦しの実践をしても夢からの脱出は不可能だ。

 

なぜなら、どこまでやっても、まだまだ、だから…。

 

帰還を遅らせる為に赦しをしているなんて、そんなの、

 

悲劇を通り越して、喜劇だようー。

 

 

そこで、

 

神を体験するということが決定的に重要になってくる。

 

神を体験する、といっても、そんな大げさなことではなく、

 

神の不変で優しい愛の想いが、

 

今見えているものの中に、今聞こえているものの裏に、

 

絶えず流れていることを、じっと〝観る〟だけである。

 

それはもう、すでにここに在り、そして、これしかない。

 

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ほら、お父さんがずっと離れず、ガン見してるじゃん!

 

それに何より、見えている人、モノ、全てが愛じゃん!

 

聞こえてくる喧騒や物音、全てが神の歌じゃん!

 

もう帰ってるじゃん、故郷に…。

 

なのに、僕たちは、自分の眼前1センチのところで、

 

食い気味にのぞき込んでくる神を見ようとせず、

 

本来ない罪悪感ばかりにフォーカスし、

 

赦そう、赦そう、と、日夜奮闘してはいないか?

 

 

僕は決して、赦しなど必要ないと言っているのではなく、

 

神を体験し、全部神だった、自分も神と同じだった、

 

ここが天国だった、と、気づくために赦しはあり、

 

そうなっている状態こそが、真に赦している状態だ、

 

と思うのだ。

 

それに、自分がどこにいるかに気づいた兄弟は、

 

夢の中であろうと、何であろうと、否が応でも、

 

豊かにならざるを得ない。すでに神を知った神の子が、

 

家賃が払えない夢を見ているなんて、あり得ない。

 

 

なのに、この世界で豊かになることを望んでいる自分は、

 

まだ自我の世界を放棄できていない、と思ったりする。

 

放棄すべきなのは、その思考であって、豊かさではない。

 

放棄すべきなのは、勘違いの方であって、神ではない。

 

👇 聖霊の訂正を受け容れるとは、

  いま、この瞬間に在る神に抵抗しない、

  ということだった、と、今なら解かる

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幸せな夢は、

 

赦し終えたあとの〝いつか〟に訪れる訳ではない。

 

幸せな夢は、今、もうここに在り、そして、ずっと在る。

 

 

だから、

 

いま、ここに在る父を避ける為に赦しをするのではなく、

 

いま、ここに在る父を受け入れるために赦すのだ。