今日は三連休の二日目、ずっと家でうだうだしていた。
夕方、すんごく眠くなって爆睡する。
そういえば昨日は春分の日だったんだね。
深夜に起きだし、何か食べようと思って外へ出てみる。
香港そごうの辺りで何組か路上ライブをやっていた。
香港もだんだん活気を取り戻しつつあるのでうれしい。
結局、昨日食べたポークステーキの味が忘れられず、
同じ食堂で同じステーキを頼んだ。ああ、美味しかった!
神の世界(実相)だけが真実で、それ以外は存在しない、
という点について、コースは一切の妥協をしない、
と、言っているが、神がいまここに在る、を智ったいま、
本当の意味でこの〝妥協しない〟を生き始めている。
純粋非二元以外真実ではない、を実践するとは、
いかなる肉体としての個のアイデンティティ、例えば、
〝私は、やり甲斐のある仕事を持ちながら、
愛する伴侶や子供と共に、充実した人生を歩んでいる
何某という肉体です〟
の一切を放棄することを意味する。
もちろん、精神的にではあるけれど…。
神の愛だけが実在だ、と言われれば、
そうだよねえ、愛しかないよねえ、とうなづけても、
それ以外は実在ではない、と断言されれば、
ええっ、と、水を差されたようにシラケてしまう。
僕は結婚もしておらず、子供もおらず、伴侶もおらず、
財産もなく、執着する何かや、守るべきものもないため、
もう明日にでも幻想から脱出してもマジ平気である。
それに、年齢的にも、もういい年であるので、
したいこともやったし、未練や思い残すことも特にない。
しかし、ちょっと前までは、
コースは心の中のことだけを言っていて、
外の世界では別に何をしてもいいんだよね、とか、
心の中で夢だと解っていればお金儲けもOKだよ、とか、
神に触れれば、特別な人がもっと愛おしくなるよ、
という風に「コースは心の中だけを扱っているから…」
を口実にして、本音では現実を良くしたいと思っており、
しかも、そのことに本人は全く気づいていない、という…。
〝神だけが実存〟が先手に来るべきだ、と思うのだ。
神だけが実存で、その神はすでに今ここに在った、
がバシッと体験として入って初めて、
それ以外のものは本当に無かった、と理解できる。
神に在る、が見えていると、
天職だと思えるこの仕事や、大切なこの肉体や、
かわいい子供や孫、大好きな趣味やスポーツが、
存在すらしていない幻だった、と理解しながら、
その奥に流れる神の愛を感じることができる。
そうして初めて、
あなたがこの幻想の世界で愛している全てのものは、
なにひとつ実在ではない、と心から断言でき、
大切にしている自動車、地位、収入、仕事、
特別なパートナー、自分を分かってくれる友人、
土地、家、財産、貯金、生活の糧、信用、お金、などの、
まやかしの神を、幻想としては維持しながらも、
〝真に〟放棄することができるのだ。
なぜなら、
心底、納得して放棄できたとき、まやかしだった神が、
今度は、本物の神の写し絵となって輝き出すからだ。