ここ数日、仕事をしていても、家で何やかやしていても、
どうでもいい感、というか、もう別にどうあってもいい感
が、心の根底にずっと流れている。
例えば、今夜は仕事帰りに、あそこのレストランで、
チャーシュー目玉焼きご飯を食べよう、と決め、実際に、
そのレストランでその通りのメニューを食べるのだが、
でも、だからなに、という感覚が常にある、みたいな…。
別に何を食べても、究極、何も食べなくても、
どこにも正解はなく、特別な意味もない、と思えてしまう。
だからと言って、虚無っぽく冷めているか、というと、
そんなこともなく、いま、この瞬間が楽しいのは楽しい。
うまく説明できないけれど、何を選択しても、
どれも違うけれども、どれも正しい、というような感覚が、
仕事や生活の衣食住全般に及んでいるのだ。
人には多かれ少なかれ、その人をその人たらしめている
固有の行動形態や嗜好、こだわりがある。
夜は必ずビールを飲むとか、銘柄は必ずキリンだとか、
病気になったら医者よりまずはこのヒーリングだとか、
この仕事をしているときが私は一番輝いている、
といった〝これをしてこそ私〟みないなのを持っている。
しかし、今日はあれやろう、あそこ行こう、という意欲は、
ちゃんとあって、それはそれでオーケーであるのに、
別にそれでなくてもよい、というような…。
要するに、よくわからない。
さっきも、WOWOWシネマやスターチャンネルで、
クラウド録画のあらすじを確認しながら、
見たい映画を探してちょっと早送りで見てみるのだが、
なんか、どれも違う。
すぐに〝別にこれでなくてもいい感〟が出てきて、
どれを見ても同じに思えてくる。
この感覚は、ただの一過性のモノなのかもしれないし、
今後、ますます大きくなっていくのかもしれない。
まあ、抵抗せず、このまま見すごしてゆくことにする。
で、今日もオフィスワークであった。
出張に出なくなって三か月近く、こんなにも長い間、
香港にいたことなんていまだかつてなかったように思う。
それだけ、僕たちは、普段、外に出まくることによって、
いかに自分の内側を見ずに来れたかを思い知らされる。
なので、この時期に、
しっかり自分の内面を見つめることで、
また以前のような外側中心の生活に戻ったとしても、
ブレブレにならずに神を中心に置けるよう、
練習しておくのだ。