例えば、
夫や子供やお姑さんに自分の行動を制限されている。
上司に自分の仕事を細かく管理されている。
親に人生をコントロールされている。
もし、そう感じている人がおられるなら、これみんな、
自分が自分をバシバシ取り締まった結果だと言える。
こんな私じゃ、まだ、まだ、まだ、だめ、だめ、だめ、
が外界に投影され、そんな自分の化身が、
家族となり、親となり、上司となり、または状況となって、
自分の人生を取り締まっている。
なので、他者から、こうしなさい、こうあるべき、と、
自分であることを否定されたり、
自由な言動を制限されたと感じている人は、
相手をどうにかしよう、ではなく、なにはともあれ、
自分に優しく寄り添おうとする意識を持つことが大切だ。
とにかく今夜は美味しいものを食べようよ。
とにかく今は考えるのをやめて、風呂にでも入ろうよ…。
いいよ、いいよ、今はお酒を飲んでぼーっとしてれば…。
と、自分を咎めず、自分に条件を加えず、優しく接する。
しかし、そんなときやってしまいがちなのが、
このレストランでこの料理を食べたいけど、
太りそうだし、こんな高いレストランなんてもったいない、
で、バシバシバシッ。
ゆっくり風呂に入ったはいいが、鏡に映る自分を見て、
ああ、こんなところにシミが、で、バシバシバシッ。
酒は飲みたいけど、これ以上飲んだら酔っぱらうぞ、
で、バシバシバシッ。
本当は着飾りたいけど、もう年だし、人にどう思われる?
で、バシ、バシ、バシ。
ほら、自分が自分に対してやっているこれら全部、
よく考えたら、他者からやられていることではないか。
なんのことはない。
自分の声を他人に代弁させて言わせているのである。
僕は、
もう絶対に自分を攻めない、と決めてからというもの
ほんの些細な〝自分取り締まり〟も分かるようになった。
今朝、電車の中でマスクをしていると息苦しかったので、
少しマスクをずらし、鼻の部分を出して座っていた。
瞬間、向かいの人がちらっと僕の方を見た、気がした。
一瞬、罪悪感が出た。
が、いいよ、このままで、と、卑屈になる自分をかばった。
また、今日、オフィスで、もう一人の日本人が、
実家にマスクを送るというので、
FEDEXにするか、郵便局のスピードポストで送るかで、
エドワードと、やいのやいの、やっていた。
普段は気にも留めないのに、最近は出張や外出もなく、
毎日、一日中、事務所で顔を突き合わせているせいか、
なんか、ちょっとしたことにイラっと来る。
そんなとき、
彼の中の〝愛の伴走者〟(共に旅する者)に向かって、
平手打ちを食らわそうとしていた自分に気づき、
そこから即座に、神の大好き、を思い出す。
〝自分取り締まり〟は、陰湿なイジメにも似て、巧妙だ。
いま、ここで起こっている小さな自分イジメを看破し、
それは認知し間違えている、ときづいて赦してゆく。
なぜなら、たぶん、誰も、自分で自分をイジメたい
と思ってやっている人などいないと思うから…。
(👆 そういうプレイが好きな人は除外)