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自分は常に〝今〟にしか存在できない。
将来の自分の夢を語っているときも、
過去の出来事を思い出して、叫び出しそうになる時も、
結局、存在している場所は〝今〟だし、
僕らは、今の場所から寸分もズレることができない。
言い換えれば、過去の自分も未来の自分も、今にいる。
じゃあ、どうやっても今にしかいれないのであれば、
今という地点を〝愛の場所〟にしなければならないのに
大概の人は〝私の今〟は居心地が悪い、と思っている。
しかし、この今に対する居心地の悪さは全て、
外的な状況ではなく、自分の心の中で造り出されている。
例えば、
温かな陽光の中、蝶々が飛ぶれんげ畑に寝ころび、
心地よい春の風に吹かれながらも、
明日あれやらなきゃ、これどうしよう、とやっている。
要するに、
今、この瞬間から逃げ出したい状態、というのは、
自己否定や罪悪感で自分をバシバシやっている瞬間、
つまりは常に暴君が家の中に居座っている状態なのだ。
そこで、
自分の〝今〟が居心地悪いと、居心地の良さを求めて、
心の外(幻想の世界/現実空間)へと飛び出してゆく。
そして、この今の居心地の悪さを埋めるために、
お金が欲しい、最高の恋人が欲しい、成功したい、
果ては、悟りたい、一瞥体験したい、となる。
でも、もうお分かりだと思うが、今にしかいれないのに、
神のいない〝今〟以外の場所で何かしようとしても、
やはり、今の居心地の悪さを思い知らされるだけだ。
なので、
今というホーム(家)に、ステイする(留まる)には
〝自分の今〟を心地よくするしかない。
それには、自分という存在(神の子)を丸ごとイエス、
OKと受け入れるしかない。
恥ずかしい自分、意地悪な自分、死ねと思ってる自分、
それも全て丸ごとオーケー、なぜなら、それらの元ネタは
すべて〝神の愛の裏返し〟から来ているのだから…。
自分はただ、神の愛を求めて叫んでいるだけなのだ。
もう疲れたよ、へとへとだよ、頑張るのしんどいよ、
という愛を求める懇請に対して、
いいよ、休もう、どうなったって大丈夫、愛してるよ、
と、どんなことがあっても、その自分を赦す。
なのに、悲鳴を上げている自分に対して、
じゃあこの事はどうするんだ、家族はどうなるんだ、
または、この現実はお前が作ったんだろ、
自分でちゃんと赦せよ、と、バシバシやってしまう。
なのでまずは、休む。
毎日一時間、独りでいる、独りだけでぼーっとする。
スマホもSNSもテレビも一切横に置き、独りでぼーっと、
ただ、呼吸して過ごす。
しかし、元来、独りで家にじっとしていられない人などは、
ぼーっとしていると必ず、過去の後悔や恥ずかしいこと、
または、未来の心配事が水蒸気のように湧き出し、
思わず悲鳴を上げて走り出しそうになる。
しかし、そんな自分も咎めず、ただ見すごしてゆく。
僕の経験では、だいたい一週間くらいで発作は収まる。
要約すると、
今この瞬間に抵抗👉今この瞬間が居心地悪い👉
外へ逃げる👉もっと居心地悪い👉今を居心地よくする👉
独りでぼーっ👉過去や未来の否定的想い👉赦す
という感じか。
なにしろ、
僕達は今この場所にしか存在できないのだから、
今この場所を居心地よくしてやることが何より先決だ。
そのためには、
いま、この瞬間に在る神に、絶対に抵抗しない。
自分自身の全てに100%のオーケーを出してやる。
そうやって、
今、この瞬間に在る自分(神)を肯定し続けていると、
内側に全てがあると分かってくるので、
外界に何も求めなくなり、誰のことも気にならなくなる。