連休三日目は、家の近所に住む友人を誘い、
90分3000円の韓国焼肉食べ放題に行ってきた。
ビュッフェ形式で、好きな肉を好きなだけ取ってきて焼く。
まあ、高級カルビみたいな肉はないが、普通に美味い。
ジュースやサラダやその他の韓国料理も食べ放題だし、
お肉だけで腹いっぱいになるって、すっごく幸せ!
友人ともたくさん喋れたし、ああ、楽しかった!
👆 客同士の間隔は1.5m以上、
ひとつのテーブルには4人まで
帰りに、この前買うことができなかった夏の服を見に、
タイムズスクエアへと向かった。(※自宅の裏)
まだ夜の7時半なのに、どの店も閑古鳥が鳴いている。
ZARAに白いストレッチポロがあったので買った。
ブルックス・ブラザースにはこれといったのが無かった。
すこしブラブラしてみたが、閉店している店も多く、
田舎のさびれたショッピングモールを歩いているようで、
テンションも上がらず、早々に帰宅した。
👆 この年になるとシンプルがなにより
日本のテレビを見ていると、コロナについて、みんなが、
ああでもない、こうでもない、と持論を展開している。
敵が特定の個人ではなく、未知のウイルスなので、
罪悪感を持つことなく、意見も言いやすいのだろう。
中でも、緊急事態宣言が出されているにもかかわらず、
まだ営業しているパチンコ店の行列に並ぶ人たち、
お客が来てくれるからと夜も営業し続ける飲み屋、
沖縄の離島へと押しかける都心部からの旅行者、
など、多くの人たちが自粛に協力しているのに、
堂々と抜け道を見つけて楽しもうとする人たちに対して、
多くの批判が集中している。
僕はそういう人達を見ても、あんまり批判的になれない。
僕がまだ20代だったら〝うまいこと〟やってたと思うし、
去年のデモ、今年のコロナと、政府の強制力が強まり、
次々と市民の自由が奪われてゆく香港に在って、
批判しても、排除はしない日本人の気質に、
大きな優しさ、というか、懐の大きさを感じるのだ。
それに、うまく言えないのだが、テレビの映像などで、
パチンコ店に並ぶ人や、営業を続ける店主を見るにつけ
ある種の形容しがたい〝悲しみ〟を感じてしまう。
本当はこんなことしたくないんだようー、という、
愛を求めて叫んでいるような、かなしみ…。
これらのことから、
人って、自分を厳しく律していたり、我慢させていると、
他者を批判(攻撃)したくなるんだな、と実感した。
クレーマー、パワハラ上司、子供に厳しい母親、など、
本当は自分も、
こんなことを言っちゃたり、やっちゃったりしたいのに、
常に自分を律して、我慢しているものだから、
こんなことを堂々と言ったり、やっちゃってる人を見ると、
カーッ、となってバシバシ批判したくなってしまう。
買った野菜に虫がいたとか、やるべきことをしていない、
といった、どうやっても言い返せない〝正義〟のもと、
いくらでもうっぷんを晴らすことができる。
だからと言って、本当の理解が起きていないのに、
「そういう人も世界も存在しない、罪はない、神しかない」
と、奇跡講座的にやったところで、それは別の意味で、
自分を批判しているに過ぎず、まさに徒労である。
そんなとき、自分という肉体を持っているうちはまだ、
世界というベールを通して神を観ているのだから、
正攻法で、きちんと自分をケアしてやることが必要だ。
批判したくなる自分や相手の中に在る〝悲しみ〟を、
ちゃんと見てやること、そして、自分やその人は、
何を求めて悲しんでいるのかをちゃんと聞いてやること、
それが決定的に大切になってくる。
そのステップがあってこそ、誰にも罪はない、という、
真の理解が起きてくると思うのだ。