去年の夏、神が入った。
神を感じて、神だけやん状態になった。
ただただ、世界が神の想いで満たされていた。
その後、自分が神と同じ存在だった、と理解が起き
本当に〝神だけが在る〟ことを体感で智った。
だが、それでも、日常生活では、兄弟に対して、
怒りは出るし、緊張はするし、恐怖も感じる。
実際、強烈に、神が在る、を体感しているのに、
その一方で、モヤモヤしたり、腹が立つのは、
一体どういうことなのか、と不思議に思っていた。
でも、最近、それすらも神の想いだったんだ、と、
ようやく腑に落ちてわかってきた。
イライラ、ドキドキ、モヤモヤ、といった、
神への逆恨み状態もまた、神の愛を求める叫び、
つまり〝神の愛〟と同じ〝神への愛〟であった。
そのことに気づいて以来、びゅんびゅんを感じても
これは自我だ、とバシバシバッシングをせず、
抵抗を止めて、そこに在る神を受け入れていった。
すると、神への愛が、神の愛、と同じものだった、
と認識され始め、なあんだ、どっちも愛じゃん、
となり、それからは、誰とどんな話をしていても、
神と対話しているように知覚されてくるのだった。
例えば (例えのネタがなくなってきたよう…)、
「山田さん、ご主人とうまくいってないらしいわよ」
「昨日行ったキャバクラのミユちゃん、激カワ…」
「あの人、いつも、ツンケンしていて、なんか苦手」
以前はこんな話を耳にしたり、口にしたりすると、
これは自我で、夢で、起こってもいないのに…、と、
そんな話をしている人を赦そうとしたり、
そんな話をしている自分に罪悪感を感じたり
していたが、いまでは、これも、神との対話である。
何ていうか、どんな人にもみんな神的な側面があり
その神の部分が自分の方へ炙りだされてくる。
ていうか、何を話していても、もう全ての人が、
〝完璧でカッコいい存在〟に感じてしまうのだ。
まあ、自分の中に在る神そのもので見れば、
たとえ、外側に怒りや緊張が顕れていたとしても、
それは愛を求める姿、すなわち愛だった、となり、
「自分はまだこんなことを感じてる」とはならない。
〝外の誰かが言っているあんなこと〟が、
神の声だったことに気づけば、世界は消滅する。
自分はこれまで、
起こってもいないことを、繰り返し空想することで
〝個の自分〟を存続させたかったんだな、
ということが、解かり始めた日曜の午後である。