👆 家飲みなら〝くまたか〟で十分
いま、まさに神と在る時期を過ごしている。
通りがかる人、同僚、パソコン、コーヒー、街路樹、
全てが、僕に、愛を呼び掛けているように感じる。
それに対して、こちらも歓びで呼応すれば、
世界が一層、優しく見えてくる。
人や、物や、出来事を映し出すベールの向こうに、
ずっとそこに在る、不変の愛の流れを感じる。
これまでは、仕事帰りのバスの中から見た夕焼雲や
一杯のカクテルや、ありがとうという言葉を通して、
ハートの愛の中へと入って行っていたが、
今はもう〝それ〟そのものになりつつある。
いまの僕は、
おおむね愛、時々レッスン、という感じなのだが、
たとえレッスンの最中でも、愛を忘れることはない。
兄貴がずっと僕のみぞおちの奥の方にいて、
実相からくる大丈夫感を後押ししてくれている。
そういえば、最近、瞑想ばっかりしている気がする。
朝の電車の中で20分、昼休みに寝ながら30分、
夜就寝前に40分くらいで、休みの日はもっと多い。
それ以外にも、
スーパーでレジの順番を待っている時や、
カフェでボーっとしている時も、スマホなどは見ず、
じっと内側に向かっているので、おおむね一日、
軽い瞑想状態で過ごしていると言える。
瞑想と言っても、今、この瞬間への抵抗をやめ、
ただ、みぞおちの兄貴を感じているだけなのだが、
慣れてくると、その際どんな感情が上がってきても、
解釈から生み出される幻影を、
みぞおちの祭壇に置くことができるようになる。
そうすると、世界がリアルでなくなってくる。
決して現実逃避ではなく、ちゃんと仕事をしながらも
ここがそのまま実相だった、という感覚になるのだ。
そんな僕の感覚を後押しするように、
また最近、ぞろ目をすごく見る。
通りがかる車のナンバーが888だったり、
時間を見れば、11:11だったり、
キャッシュレスカードの残金が66.66ドルだったりと
一日3回くらいぞろ目を見てしまう。
その度に、その調子、その調子、それでいいよ、と、
兄貴から励まされているようでうれしくなるのだ。