香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

コロナの季節

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👆 マスクをして歌うのって、根性要りそう…

 

 

おっす!

 

おいどん、今日から自宅勤務でごわす。

 

香港は連日100人越えの感染者が出ており、

 

多くの民間企業が在宅勤務となっているでごわす。

 

(って、なんで鹿児島やねん!)

 

で、当分外出しなくてもよいように、昨日の深夜、

 

近所のドンキで食料を爆買いしてきた。

 

それでも、自宅にいると、

 

プライベートと仕事の境界線が曖昧になりがちなので

 

リマインダーできちっとスケジュールを立て、

 

メリハリをつけながら時間を過ごしてゆく。

 

 

こうやって、家で仕事をしていると、突然、

 

いま、自分は、これまでの古い人生を、

 

終わらせようとしているんだ、という、

 

強烈な思いが湧きあがってきた。

 

 

僕の古い人生を少しお話しすると、

 

小学生のころから、

 

海外で生活することが一番の夢だった。

 

それで、日本で語学系の大学を卒業した後、

 

中国やベトナムへ留学した。

 

そして、海外で生活したいというその夢が叶い、

 

それからの二十数年は、海外駐在員として、

 

香港を拠点にあちこち出張する生活を送っていた。

 

しかし、ここ数か月(コロナが始まった頃からかなあ)

 

これまで出会ったことも無いような人に会ってみたい、

 

これまでと全く違う場所で、全く違う人達に囲まれて、

 

全く違う毎日を送りたいという衝動に駆られ始めた。

 

 

いままでも、会社員の傍ら、語学の本を出版したり、

 

小説を出版したり、語学講師をしたりしていたが、

 

フリーになった途端に〝安定を失う恐怖〟に襲われ、

 

その都度、古巣の会社員に舞い戻っていた。

 

要するに、自由にしたいことをして生きることを、

 

自分で自分に許可してこなかったのだ。

 

👇 少し前まではこんな感じだったのに… 👇 

blog.hoshitani-shusaku.com

 

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それで今日、仕事の合間に祭壇瞑想をしていたら、

 

これまでの、安定し、護られてはいるが、

 

会社の許可に従って生きる生き方を、

 

本気で終わらせたい、という強い意志が起こった。

 

 

「いま、私は、

 

 愛と歓びで創られた神の子(霊)で存在することを、

 

 私自身に許可します。」

 

「私は、神の子の自分にふさわしい場所で、

 

 神の子の自分にふさわしい兄弟たちと、

 

 愛と創造に満ちた世界で、肉体を持っている間、

 

 過ごしてゆくことを許します。」

 

 

気がつけば、心の中で、こんな宣言をしていた。

 

いつもはただ、今この瞬間に在る神への抵抗を止め

 

神の気配を感じているだけの瞑想なのに、

 

なぜ、突然、こんなフレーズが浮かんできたのか、

 

自分でも意味不明である。

 

 

これは、確信に満ちた、強烈な意思表明であり、

 

そう表明した瞬間、気持ちがとても楽になった。

 

もちろん、これは、

 

愛と創造に満ちた世界を創ることではなく、ましてや

 

愛と歓びに満ちたどこかのコミュニティに参加する

 

ということなどでは更々ない。

 

 

たった一人の、

 

愛と歓びに満ちた兄弟に出会えればそれでOKだし、

 

たとえ自分一人だけであっても、

 

愛と歓びに満ちた世界に在ることは可能だ。

 

ただ、こういったパラレルへ移行するには、

 

古い信念(今の生き方)と決別せねばならない、

 

ということだけは、はっきりと解かるのだ。

 

 

別段、無理に生き方を変えようとしたり、

 

解釈で行動しようとしているわけではなく、

 

こういう思いが勝手に湧いてくるのだから、

 

もう、どうしようも致し方ない。

 

しかし、これもまた、

 

自身の抵抗がなくなった結果であり、

 

心が癒されてきた結果なのかな、とも思う。

 

 

なので今後は、決して自分に無理強いすることなく、

 

ゆっくり、じっくり、自分を赦し、許可を与え続け、

 

この古い生き方を終わらせてゆこう。

 

そういう意味で、このコロナの時間は、

 

僕にとって、終わりと始まりの覚悟をつける、

 

非常に大切な、内なる時間となってゆくのだろう。