昨夜、山本耀司のドキュメンタリーを、
WOWOWプライムでやっていたので見た。
YOHJI YAMAMOTO と言えば、
80年代バブルの頃、
コム・デ・ギャルソンの川久保玲と、
双璧を成した大御所デザイナーである。
全身黒づくめのマヌカン(ショップ店員)
が話題となり『夜霧のハウスマヌカン』
という歌までヒットした。
彼の映像を見ながら、バブル末期、
一着12万円もするコムサのスーツを着て、
ブイブイやってた自分を懐かしく思った。
当時は、少しだけ型の違う二足のTK
(タケオキクチ)のローファーを見比べながら
どちらを買うか迷ったのち、店員さんに、
「じゃあ、2足ともいただきます」
と、言ってのけていたすごい時代だった。
ちなみに値段は二足で15万円である。
大学出たての青二才が貰う冬のボーナスが
手取りで120万円という狂った時代だった。
とまあ、バブルの頃の自分はさておき、
このドキュメンタリーの中で彼は、一度だけ
自殺を試みたことがあると告白した。
2002年のある夜、
なぜかとても幸せな気持ちに満たされ、
あまりに幸福で平安そのものだったので、
今、このまま死ねたらもう最高だと思い、
睡眠薬を70錠飲んだのだという。
結局、爆睡しただけで未遂に終わったが、
彼のこの告白を聞いた時、僕は、
人って、生きることが辛い時だけではなく、
人生の頂点、至福の極みに至った時にも、
死にたくなるのだなと感慨を新たにした。
これは僕の推論だが、きっと彼は、
幸せな気持ちに包まれた瞬間、
本当の故郷の記憶を思い出し、
ああもう帰ろう、帰りたいと思ったのだ。
満月の夜、桜の花が咲き誇る樹の下で、
二人の女学生が命を絶つ、という、
吉屋信子が描く大正耽美文学にも似て、
自ら体を脱ぐという行為は、
ある種のエクスタシーであり、
ロマンとなり得る。
そのことからも、自殺は必ずしも、
苦しみ=罪悪=天国に行けない=可哀想
ではないのかも、と感じた次第である。
(かといって決して推奨はしないけれど…)
で、こんな事を書くとスピ兄弟の中には
魂は永遠で、死は幻想にすぎないんです、
生まれてもいないのに死などあり得ない
と、誰かの死に直面した時に感じる、
悲しみや、喪失の〝想い〟を、
究極の真理に当てはめて、
即座に否定してしまったりするが、
それって少し乱暴すぎる、と僕は思う。
その証拠に、
三浦春馬さんの訃報を聞いて、
死は無いんです、解釈をしているだけです
と言えても、もし、自分の娘や息子が、
理由も告げずに、突然自殺してしまったら、
大きな喪失感と罪悪感にさいなまれ、
到底、それはただの夢なんですよ、
などとは言えないはずだからだ。
そして、
どうして他人の死には冷静でいられても、
大切な人の死は受け入れられないのか、
その巨大な喪失感はどこからくるのか、
本当は、
自分は何を失ったと思い込んでいるのか、
原因はそこにあると思うのだ。
幸せな夢の状態とは、ひょっとして、
もういつ死んでもいい、と心底思いながら、
生きている状態のことなのかもしれない。