ここのところずっと〝想いの中に入らない〟を、
意識しながら暮らしている。
コースでは、自我との同一化、とか言ったりするが、
小難しすぎてストンと腑に落ちないので、僕は、
シュワシュワと次々に何の脈絡もなく湧き出る
思考の泡ぶくを、ただ黙って見送る、としている。
この〝黙って〟という部分が肝心で、
例えば、上司から突然、残業を命じられたとき、
友人と約束が👉でも断ると上司はBさんに振る👉
前回も断ってBさんが残業👉他の人が陰口👉
そういえば、Bさんから無視されてるっぽい👉
残業を受ける👉友人にLINE👉モヤモヤ
という感じで思考が展開していったとする。
これに対して、
ちゃんと断れない自分にモヤモヤ、とか、
Bさんを恐れている自分が嫌い、という感情が、
シュワシュワ起こってきても、それも黙って見送る。
別の言い方をすれば、沈黙の中で他者を観る。
すると、他者の言動に呼応して、勝手に、
シュワシュワ湧き出してくる想いの泡ぶくを、
自分が〝思った〟と勘違いしていたことに気づく。
どこを探しても、何かを思っている自分がいない。
ただ、シュワシュワが湧いてるだけ。(大爆笑)
そして、そのシュワシュワを見過ごした先に、
愛そのものである真の自己(心・霊)が見えてくる。
今日は、月初なので、時短出社をした。
7月のキャッシュフローを締め、
向こう三か月の資金繰り予測を出す。
途中、エドワードに売掛金の修正を依頼する。
少しイラっとして、口調もきつくなる。
ああ、コンババ部長がやってることを自分もやってる
と、気づく。
こうして、ひとつの意識の中で、
シュワシュワが循環している。
ただ黙って観る。
これを、自分が思った、自分がやった、と思いこんで
責めていたなんて…。
第一、シュワシュワが自分な訳がない(大爆笑)
沈黙の後、本当の自分を思い出す。
愛を放つ存在であることを思い出す。
毎回、沈黙の後は、
愛まで行ってフィニッシュとなる。
そう、
決して沈黙で停まらず、愛まで行くのだ。
👇 香港に再びこんな日が来ますように!