何かを選択して、それが失敗だった、
と思った時〝嫌だな〟の裏に隠れている
〝こうしたい〟に気づくことで、
神の流れへ方向転換ができると知った。
例えば、
何かとミスを指摘してくる同僚のAさん。
でも、お給料もいいし、仕事も好きだし…。
→ 本当は優しい同僚と仕事がしたい。
自分を大切に扱ってくれる人がいい。
今の仕事、長時間だし、自分に合わない。
でも、いまはコロナで仕事なんて無いし…。
→ 本当は植物のあるカフェで働きたい。
自分と優しい店長だけの店がいい。
という感じで、
嫌だ、の後ろに隠されている、こうしたい、
にフォーカスしてみることで、自分の中の、
〝愛由来〟の本音に気づくことができる。
今はこの仕事を辞めたくないので、
Aさんがこんな風に変わってくれれば、
という、嫌からの発想ではなく、
こんな同僚が現れたら最高だな、とか、
こんな同僚と過ごせたら楽しいだろうな、
という〝裏返った愛〟の感情に気づく。
また、この環境がこう変わってくれれば、
と、現状を変えたい、からの発想ではなく、
こんな場所だったら天国だろうな、という、
自分の中の愛を欲する部分を見てゆく。
その、嫌なこと、の愛の部分に焦点を当て、
抵抗を止めて見つめることで、次第に、
神の歌(愛の流れ)を感じられるようになる。
岩をどけたら、下にゲジゲジいる、
と思っていたら神がいた、みたいな…。
こんな同僚はいない、職場も幻想、
赦しによって自分の見え方が愛に変わる、
起こっていることが起こっているだけ、
というのは真実であり、
本当にそう感じているのなら問題ないが、
すでに嫌だなと感じてしまってる状況で、
この真実を当て嵌めて見過そうとしても、
「いや、もう起こってるやん、感じてるやん」
となってしまい、間違った感じ方を正そう、
としてしまうことになるので、
僕的には、あまり有効ではないと思っている。
それよりも、嫌だな、の裏側に流れている
愛の方を見て行った方が、神だけやん、
を体感しやすく、第一、その方が優しい。
同僚は変わるかもしれないし、
別の優しい同僚が入ってくるかもしれない。
また、職場が愛に変わるかもしれないし、
別に新しい職場が見つかるかもしれない。
そして、全く何も変わらないかもしれない。
ただ、日々湧いてくる〝嫌だ〟に対して、
〝実はこうしたかった〟を採用することで、
神を嫌がっていたのだけれど、本当は、
神に愛されたかった、と自覚できる。
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要するに、気分よく喜んでいることこそが、
神を受け容れている状態であり、
そうなるともう、外の現実は、嫌が応にも、
〝愛に〟変わらざるを得なくなる。