昨日は自然の中で、
〝神の感じ〟そのものになりながら、
過ごすことができた、最高な一日だった。
その時に起こった、
本来の自分は感じる側の存在などではなく
その〝感じ〟そのもの〝それ〟そのもの
〝神〟そのものだった、という理解は、
僕に大きな内面の変化をもたらした。
👆 初めて見た野生のレモン
どういうことかというと、
気持ちいい、大好き、幸せ、平安、または、
これがしたい、こうなりたい、あれが欲しい、
と、様々な〝いい感じ〟を感じている時、
〝自分〟がそれを感じているのではなく、
その〝感じ〟そのものの中に、
本質の自分が在り、
それこそが神の想いだ、ということである。
しかし、僕たちはほぼ自動反射的に、
神の想い(いい感じ)を否定してしまう。
今は平安、でも将来どうなるかわからない、
今日は楽しい、けど明日は仕事に行かねば
あの人がすごく好きだ、でも結婚している、
歌手になりたい、そんなの今更無理だ、
本当はガンガン金儲けがしたい、しかし、
それって幻想を実在化しているよな、
という感じで、僕たちは一日中、
自然に湧き上がってくる〝いい感じ〟
(神の想い)への独りツッコミをやっている。
何かを望んだり、いい感じになっている時、
なにも、その望みを実現させたり、
いい感じを持続させようとする必要はない。
もし今日、水災で家が浸水したとしても、
昨日までの安心だった感覚は失われず、
そのときの〝いま〟にちゃんと在る。
また、好きな人が結婚していても、
頭の中で、その人を好きでいて、
思い切り愛そのものでいればOKだ。
愛そのもの、神そのものであることに、
何かを成し遂げようとする必要はなく、
いまもそれが続いている理由もない。
〝それ〟そのものが自分なのだから、
今、この瞬間、いい感じそのものになって、
愛を感じて思い切り歓んでいればいい。
頭の中は、何を思おうが自由なのだ。
そうすることで、小さな点の中へ入り込み、
嫌な事に一点集中しようとする意識を、
愛の流れへと方向転換させることができる。。
blog.hoshitani-shusaku.com
blog.hoshitani-shusaku.com
というわけで、今日は一日家で過ごした。
コース兄弟の友人が、お盆に行われた、
デイビッド&フランシスのリトリート音声を
送ってくれたので、これから聞くことにする。