お籠り連休も過ぎ、昨日から仕事開始である。
会社は16日まで時短勤務を継続しているが、
忙しい月初の4日間が祝日だったのに加え、
日本の本社は祝日ではなかったため、
休み明けの今週は本当に忙しく、
今日も7時まで残業をした。
そんな中、
新しい出勤管理システム導入、とか、
仕入計上のやり方が今月から変わった、
といった事項に対応するたび、
どんどん時間が過ぎて行った。
それでも、今、この瞬間に在る神を意識すると、
表面に見えている相手の対応がどうであれ、
彼らの背後にある〝愛の感じ〟が共有され、
誰でも愛おしい存在に感じられる。
僕にとっての、今、この瞬間に在るというのは、
〝今、今、今、見えているこの瞬間の今―っ!〟
とやるのではなく、
背後で、皆と溶け合っているひとつの場所、
愛そのものの場所に気づいている感じ、
を常に意識できている、ということである。
常に〝そこ〟を感じていると、
目の前にいる人が大好きに思えてくる。
そして、自分は愛の中にいる、と気づける。
しっかーし! (👈 またかいっ!)
その一方で、少しでも〝今〟からズレると、
途端に、昨日の記事でもお伝えした、あの、
言いようのない不安感に見舞われるのだ。
会社で仕事をしている時などは特に、
少し油断すると、今ここに在る神から外れ、
小さな何かの出来事をきっかけに、
不安バクバク、に陥ってしまう。
まあ、以前と違う点は、不安が出てきても、
すぐにまた、愛に復帰できるという点にあるが、
どうしてこうも、行ったり来たりを繰り返すのか、
もういい加減、うんざりだった。
理由は明白だ。
パラダイムが違い過ぎるのだ。
会社という枠組みの中で、中枢となり、
良しとされているパラダイムと、
神を知っている自分の内なるパラダイムが、
日増しにかけ離れて行っているのである。
以前は何とか同調できていたパラダイムも、
僕が内なる無限の全体で生きれば生きるほど、
両者の差はますます拡大し、
あまりの居心地の悪さから、
怒涛の如く不安感が押し寄せてくるのだ。
それはまるで、敬虔で厳格な、
カソリック教会の修道女だけがいる世界に、
キャバ嬢が一人紛れ込んでいるようなもので、
たとえ、私もギャルになりたいという修道女を、
幾人か獲得することができたとしても、
圧倒的な修道女たちのパラダイムの中で、
キャバ嬢の存在は否定され続け、
その前途は多難を極める。
下手をすると、
キャバ嬢自身も修道女に仕立て上げられ、
あまりの違和感に日々苦しむことになる。
なので、
今回の僕の場合、不安感が出てくるのは、
罪悪感を信じているから、とかではなく、
単にパラダイムの違う世界に居続けている、
というだけの話なのだ、と理解している。
そういう意味で、僕はもうすぐ、企業という、
規則と上下関係で管理されるパラダイムから、
肉体的に、スピリチュアル的に、経済的に、
エネルギー的に、人間関係的に、もっともっと、
自分を豊かにする仕事をしていくパラダイムへと
シフトしていくことになる。
ただ、会社の人たちは何も悪くはなくて、
彼らは、そのパラダイムに満足しており、
居続けることを選択しているだけの話だ。
しかし、僕自身は、
聖なる自分(神)を大切に扱わないような、
そんなパラダイムにいてはいけない、
と思っている。
なぜなら、それは、自分を痛めつけ、
実相を否定し続ける行為だと思うからだ。
そんな状況で、赦すことなんかできっこない。
そのために、背後の本質の自分に開き、
兄貴と常にコミュニケーションを取りながら、
シフトしようとしている自分を許してゆく。
それまでは、たとえ不安感が出て来ても、
ここにいると覚悟を決めて〝凛と〟して過ごす。
まあ、僕は、
独身で、健康でもあり、子供もいないので、
内なる恐怖と折り合いさえつけば、
さっさと今のパラダイムを手放すことができるが
支払いや、ローンや、家族がある人は、
それらの現実を無視してまで、
無理にパラダイムを変える必要はないと思う。
ただ、ちゃんと心の準備が整ったいつか、
を待っていたら、そんな時は永遠に来ない、
ということも、経験上解かっているので、
エイヤー、と、
清水の舞台から飛び降るりると決めたら、
さっさと実行するのも必要かも…。
というわけで、
こういう状況をカンガみるにつけ、
僕の状況に限って言えば、
二極化は当たっていると思う。
え?
ということは、
もうすぐゲートが閉じるってこと?
ぎえっー!
知らんけど…。
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