明日から重陽節の休暇で4連休である。
また、ネットやスマホを遮断してお籠り、
なーんてするわけは無く、明日は友人たちと、
塔門(TA MOON)という香港の端の端にある
小さな漁村の島へ一日旅行へ行くのだ。
でも、台風が来ていて、天気が少し心配。
それにもう、
国慶節の時の二の舞はコリゴリだよう。
ほんと、あの時は辛くて死ぬかと思ったよ。
だから兄貴い、
今回はちょっと休ませてくれ、ホンマ頼むわ。
というわけで、
今、この瞬間に在る神に抵抗するのをやめ、
背後の無限の全体に開いてくつろいでいると、
全てから全肯定されているような感覚になり、
自分が愛そのものだったことを思い出せる。
ただ、自分の中に愛が満ち、
愛を通して世界を観るようになってきた中で、
最初に、意外だな、と感じたのは、
人のことをほとんど気にしなくなったことである。
なんか、自分が〝立っている〟というか、
会社とかで、隣のデスクの人が何をしていても、
カンケーないわ、という感じで凛としていられる。
また、
人に何か言われたり、トラブルが起こっても、
今、この瞬間に起きていることに
抵抗しないでいると、それも、
今、この瞬間に過ぎてゆく。
だから僕は、いま、この瞬間を見つめ、
スカイハイの釈由美子のように、
「おゆきなさい」と行かせてやるのだ。
そして、会社を出るともう、
さっきまで起こっていたことは、
直ちに忘れてしまっている。
もちろん、今日あんなことあったなあ、と、
思い出したりはするが、
心の中で出来事を〝ひきずる〟ことはない。
「だって、もう〝往った〟んでしょ!」という感じ。
しかし一方では、
兄弟に対する〝大好きな思い〟は流れていて
決してドライな感じではない。
それで、今日気づいた。
自分はもう、目の前で何かしている肉体を、
まったく信じていないんだ、と…。
これらは本当の兄弟ではないと理解している。
真の兄弟は、前側ではなく、僕の背後にいる。
無限の全体のなかで一緒にいる彼らだけと、
僕は繋がっていると〝決めた〟のだ。
自分が愛の存在であるならば、彼らも同じだ。
ただ、彼らは〝前側〟にはいない。
従って、眼前に見えている肉体の彼らは、
厳密には、ホンモノではなく、幻想である。