香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

役を降りた俳優

f:id:shusaku1:20201024021849j:plain

👆 大澳の店先で泳いでいた魚。

  なんていう名前なんだろう。

  シーラカンスみたい。

 

〝今、この瞬間に開いて、抵抗せず、

 

 今、起こっていることを許容し、

 

    ただ神の流れに任せる〟

 

 

昨日も書いたが、

 

連休は会社の業務に邪魔されないので、

 

神側へ没入して過ごしやすいせいか、

 

あらゆる事に〝全肯定〟ができるようになる。

 

背後側ではすでに一体である兄弟たちが、

 

完璧な愛の存在として認識されてくるので、

 

肉体としての誰かが何か変なことをしていても

 

「本物じゃないこの人に何の問題が?」

 

というふうに捉えられてしまうのだ。

 

 

引っ込み思案でウジウジしている人を見ても、

 

オレが、オレが、的な人を目の当たりにしても

 

裏でこそこそ何か言っている人が現れても、

 

「ああ、それぜんぶオーケー、何も悪くない、

 

    本当のあなたとは別物だし…」

 

と完全に解かっている感覚なのである。

 

f:id:shusaku1:20201024021857j:plain

 

ただ、誤解を避けるために言っておくならば、

 

この全肯定感は、

 

何かをしている誰かなんていないんです、とか、

 

全ては幻想で世界なんて無いんです、といった、

 

〝無い〟からくる言い聞かせ的なものではなく、

 

〝本当の彼ら〟が自分の内側に在ることを

 

知っているからこそ肉体の彼らも愛おしい、

 

という愛の感覚から来ている。

 

 

しかし、できるかどうかは別として、

 

神を全肯定しよう、兄弟を全肯定するのだ、

 

と言えば、そうですねとすんなり頷くのに、

 

自分を全肯定、と言われると、

 

なかなか受け容れられない人が多い。

 

しかし、

 

完璧な愛である兄弟は、外側ではなく、

 

自分の内側(背後側)に存在しているので、

 

自分を全肯定することで初めて、

 

真実の他者を全肯定することができる。

 

逆に言えば、

 

自分の内なる愛を肯定できないのに、

 

兄弟を愛で観ることなどできる訳がない。

 

 

例えば、僕の眼前で肉体の兄弟たちが、

 

理不尽だと思えるようなことを言っても、

 

僕は即座に背後の無限の全体へ戻り、

 

そこにいる完璧な愛である彼らを観る。

 

彼らはまるで、役を降りた俳優さんのように、

 

優しくて、穏やかで、愛そのものだ。

 

2時間ドラマで、人を殺したり、騙したり、

 

崖の上で、船越英一郎相手に、

 

熱演を振るっている悪役の役者さんたちも、

 

役を降りれば普通にいい人だった、みたいな…。

 

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

  

要するに、

 

前側で起こっている事は全部〝ウソ〟なのだ。

 

そして、前側がウソだと理解するには先ず、

 

後ろ側をリアルにすることが大切だと気づいた。

 

 

とまあ、

 

こんな感じで〝泣き〟も落ち着いてき

 

連休最終日のボクであった。

 

shusaku1.hatenadiary.jp