👆 上海ガニの季節到来!
日常の現実生活の中で愛や平安を感じるのは、
とても大切なことだと感じている。
というのも、
愛か恐れか、平安か正義か、
奇跡講座の赦しの実践とは、結局、
この二つのうちのどちらを選択しているかを
日々の日常生活の中で、ひとつひとつ、
丁寧に見ていくことなんだな、と思うからだ。
これはまた、
兄貴を選んでいるか、自我を選んでいるか
の問題にも直結する。
例えば、
この職を失ったら食べていけない、
だから、何を言われても我慢しなければ、
という恐怖から仕事をやっているのと、
この職があるから自分は安心して
毎日を過ごせるんだな、有難いな、
という感謝からやっているのとでは、
意識の方向が全くちがう。
また、
うちの夫は家のことを何もしないし、
子供たちのこともちゃんと考えてくれない、
それに昨日言われたあの一言も許せない、
と、不満からパートナーに接するのと、
いや、昼間あくせく身を粉にして働いて、
お給料を全部入れてくれている、
他にどんな問題があったにせよ、
ただもうこれだけで愛じゃん、と捉えるのとでは、
意識においては雲泥の差となる。
そして、いま、自分は、
愛で、このことを観ているのか、それとも、
恐れからやっているのか、また、
自分は、平安を求めているのか、
それとも、
正しさを主張しているだけなのかという選択は、
こういった日常を通して選択していく。
どうしてそれが顕れてきているのかを見ずに、
いきなりど真ん中で相手を愛で観ようとしたり、
罪悪感を直視しようとしたりしても、
無理だと思うのだ。
要するに、前側対前側(肉体対肉体)で見れば、
それは自我を投影したものとなって、
永遠に続く自我の無限地獄のように感じられ、
背後の無限の全体から回り込んで見れば、
それは神(愛)を反映したものとして捉えられる。
自分が見ている現実のスクリーンには、
自分の心の中が丸ごと映し出されているので、
自分が心の中に何を隠蔽しているかは、
外で起きていることを見れば一目瞭然なのだ。
だから先ずは、
現実に起こっている事に対して、
自分がどんな反応をしているかをよく観察し、
そこから
〝自分なり〟(👈ここ強調!)の愛や平安、
神の感じをを選択してゆけばいいのだと思う。