香港さんといっしょ! 純粋非二元と奇跡講座を生きる

欲望都市香港で奇跡を実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

優しい赦し

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⇑ 僕の冷蔵庫の中。

   お酒をあまり飲まなくなったので、

   ワインが溜まっている。 

 

今の僕の〝赦し〟について書いてみたいと思う。

 

今、この瞬間に在る神に抵抗せず、

 

自分が完ぺきな愛そのものだと気づいていても、

 

有限である肉体の自己へ、さっ、と戻った瞬間、

 

無意識の罪悪感がわっと出てきたり、

 

言いようのない不安や恐怖に襲われたりする。

 

 

そんな時、僕の場合、

 

有限の小さな自己が体験していることを、

 

押しやったり、軽んじたりせず、

 

先ずはそういった感情もすごく大事にしている。

 

思い切り〝頭の中で〟、不安がり、怖がり、

 

怒り、恨み切ったあとで、

 

分離意識から来るその苦しみは苦しみのまま、

 

背後の無限の全体へ戻ってゆく。

 

すると、

 

何て言うのか、これらの分離の苦しみは、

 

自分のものではなかった、故に真実ではなかった

 

形を変えた愛そのものだったことが思い出され、

 

最終的には、わわわ、と愛に変換されてゆく。

 

 

何がきっかけで、

 

いつからそうなったのかは覚えていないのだが、

 

背後と前方を行ったり来たりしながら、徹底的に、

 

〝神を感じようとする意識〟で過ごしていると、

 

いつの間にか、神の安堵感が戻ってきて、

 

見えている全てに

 

神の意識が充満しているように感じられ、

 

世界が愛で輝いて見えだした。

 

そうして最後は、

 

〝神の感じ〟に包まれたのを確認して、

 

僕の赦しは完了、となる。

 

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自分は天国に帰りたくないと思っている、

 

神から分離したと思い込んで神に抵抗している、

 

しかし、それは起こっていなかった、

 

そのことを、聖霊に教えてもらおう、という、

 

正統派コースの赦しとは大分かけ離れているが、

 

僕の場合、

 

そもそも真の自分は愛そのものであり、

 

神と同じ存在であることが、

 

明確に、体感として思い出せているので、

 

自我にフォーカスするより、

 

直接神を感じている方がてっとり早かった。

 

 

いや、最初のうちは、

 

すでにゆるぎない神の愛を感じながらも、

 

「いや、そんなはずはない。

 

 神を裏切った巨大な罪悪感が、

 

 そうやすやすと無くなるわけがない。

 

 これは自我の魔術だ。騙されるな!」

 

と警戒していた。(今思えばウケる!笑)

 

しかし、ある時、

 

この警戒こそが抵抗だった、と気づいた。

 

なぜなら、

 

そのときに感じている神の想いの感覚が、

 

あまりにリアルで圧倒的過ぎて、

 

これに抵抗したり、これから逃げるなんて、

 

ああ、もう無理無理、絶対に無理、と、

 

ソッコーでカンネンしてしまった。

 

 

これはあくまで僕の場合なので、

 

参考程度に聞いていただければと思うが、

 

ひとつ、絶対に正しいと言えることは、

 

赦しは決して苦しいものではないということだ。

 

なので、赦していて苦しいと感じていたら、

 

逆に、なんかおかしい、と思った方がいい。

 

僕の赦しの過程(神へ戻る過程)に於いて、

 

神も、聖霊も、兄弟も、

 

みんな優しく、愛に満ちた存在だった。

 

だから、

 

兄貴が寄り添ってくれる赦しが苦しい(辛い)

 

なんて、僕にはあり得ない。

 

blog.hoshitani-shusaku.com

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ただ、誤解を避けるために言明するならば、

 

まだ背後に無限の全体(神/無条件の愛)を

 

リアルに感じられていないうちは、

 

このブログを書き始めた頃の僕のように、

 

徹底して明け渡す赦しをしてもいいのかも…。

 

 

以前の僕は、大いなる神の愛の流れを、

 

巨大な罪悪感や恐怖の流れだと思っていた。

 

神の愛の流れを、自我の向かい風だと勘違いして、

 

本当は神の愛の流れに抵抗しているのに、

 

自我の向かい風の中を神に向って進んでいる、

 

と、必死のパッチで実践していた。

 

いまはもう、

 

その向かい風こそがハートの愛の激流だった、

 

と解かっている。

 

そして、その理解の中に〝神は在る〟のだ。