コロナ禍の影響で、
生活の速度が緩やかになっているからか、
今、この瞬間に顕われてくるものを、
よく見つめ、よく感じ、よく噛み締めながら、
慈しんで過ごすようになってきている。
例えば、
以前はテレビやスマホを見ながら、
さささ、と終わらせていた昼食や夕食も、
食べている間だけは電子機器類を全てオフにし、
食べ物をゆっくり味わうようにして食べている。
すると、とんかつの味、カレーの味、餃子の味、
など、それぞれの全く異なるその味わいの奥に、
ひとつの共通した同じ〝味わい〟が
流れていることに気づく。
それは、ケーキであろうが、漬物であろうが、
全く変わらない、幸せな愛の感覚だ。
また、マッサージを受ける時、
僕はマッサージ師とは一切会話をせず、
身体に感じる気持ちよさだけに集中する。
押しては返す指圧の振動の奥から、
〝愛してる〟というエクスタシーが湧いてくる。
最近では、同僚や、店員さんや、道行く人々、
果ては、自動車、ビル、映画、歌、洋服、など、
あらゆる人やモノや事がらの中に、
同じ〝法悦感〟を感じるようになった。
そうやって、
おいしい、とか、気持ちいい、とか、大好きーっ、
としか表現のしようがない〝神の意志〟を、
独りでじっくり感じ尽くしているうち、
ああ、この神の感覚は自分の内側で起きている、
すなわち、世界の中に神が在るのではなく、
自分の内側にすでに〝神〟はあったんだ、
という理解が起こった。
一なる神の思いを通して世界を見るから、
何を見ても、何を食べても、何をやっても、
神という一つの感じ方しかできなかったのだ。
スマホを閉じ、お喋りをやめ、ひとりに留まって、
おいしさを感じている、気持ちよさを感じている、
愛情を感じている、安らぎを感じている
という感覚の裏に流れている、同じひとつの、
なんだかすっごくいい感じ、にアクセスする。
それが、自分は神と同じ愛そのものだった、
と気づいていることになる。
また逆に、怒りを感じている、不安を感じている、
というネガティブと言われている感覚でさえ、
逃げずにようくようく感じてゆけば、その奥に、
〝神のオーガズム〟が潜んでいたことが分る。
そういう意味で、
今回のコロナ禍は僕を根底から変えてしまった。
以前のように、
出張出張で、あちこち飛び回っていたら、この、
〝神の歓びの想念〟に気付けなかっただろう。
なぜなら、
この微妙で繊細な〝神の感じ〟に気づくには
ひとり静かにしていることが必須条件だからだ。