👆 民主派の釈放を訴える署名運動
いま、
「嘘の自分でみんなから好かれるくらいなら
本当の自分で嫌われた方がマシ」
と言った、アメリカのミュージシャン、
カート・コバーンの言葉を噛みしめている。
(彼は27歳でピストル自殺をした)
今日も在宅勤務で、
財務諸表をチェックしたり、資料作りをしたり、
いろいろやることがあって忙しかった。
その中に《目標管理設定》というのがあるのだ。
多くの会社で採用されていると思うのだが、
自分が今期中に達成すべき目標を設定し、
期が終わると、上司や社長と面談し、
その達成程度に従って評価される、というやつ。
健全な財務体制の確立、とか、
各拠点への的確な業務サポート、といった、
部門ごとの大きな目標がいくつかあり、
それに沿った形で個人の目標を考える。
で、新しい期に入ったので、
自分の書斎で目標を考えていたら、突然、
何とも言いようのない〝やるせなさ〟が、
自分の内側から、わわわ、と込み上げて来た。
全く自分が目標にしたいとも思っていない目標を
会社の指示に従って、一生懸命考えている。
そして、会社によって設定された目標が、
〝管理〟され〝評価〟され、それが、
自分の〝価値〟となることに気づいて、
ひゃああー、となった。(👈おせーよ!)
自分の魂の本質と合わない場所で、
自分の魂の本質と違う事をやっているのに、
何も考えず、殆どの時間を無為に過ごしている。
それなのに、自分が望まない型の中に、
平安、無限、静けさ、創造そのものである
自己の本質をはめ込もうともがいている。
この本質とズレていることに対する抵抗が、
〝やるせなさ〟として顕われていたのだ。
👆 「偽りの自分で生きながらえるより、
本当の自分で死んだ方がマシ」
これまで僕は、
「ま、会社ってこんなもんだよ」
みたいな感じで、何も考えずにやってきた。
しかし、
あの〝国慶節飛び降り寸前事件〟の際に感じた
理由のない不安感、言いようのない虚無感は、
本質との〝ズレ〟から来ていたと今なら分かる。
こう書くと
「これも幻想であり、真実ではない!」
「聖霊にこのやるせなさを委ねます」
とやりがちだが、僕的には「ノー!」だ。
いまの〝ズレた〟場所に居ることを
決めたのは他でもない自分だし、
その場所に居るのが苦しいのなら、
そこから離れる、と決断できるのも自分である。
無いものにしたり、決断を他の何かに委ねるのは
まさに、
自分の中に在る無限の可能性から逃げている。
今日はこの〝やるせなさ〟という感情が、
〝決断する強さ〟を教えてくれた。
だから、このやるせなさも愛からきている。
というわけで、
僕の心の反映の場であるこの夢の世界も、
今後大きな〝転換〟を起こしていくと思われ…。
その勇気を持てたことがうれしい。