👆 また今日も行っちゃった!
引き寄せの法則など、全く学んだこともなく、
これといって興味が無いにも関わらず、
なぜか、こまごまと引き寄せているボクである。
それでも、何かを引き寄せる上で大切なのは、
想いであるということくらいは知っている。
この世界は〝想い〟だけでできている、と、
事あるごとにこのブログの中で綴ってきたが、
ここへ来て、その想いこそが神そのものであり、
その想いこそが真の自己そのものだった、と、
理解が起こり、感動している。
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何年か前に、一瞥体験をした際、
どこにも自分がいないことを悟った。
腕、心臓、脳、果ては私という概念に至るまで、
どこにも自分という存在を見つけられない。
目を閉じて、自分の思考を観察してみても、
ただ〝想い〟だけが、サイダーの泡のように、
シュワシュワと湧きあがっては消えて行くだけで、
それを〝思っている主体〟がどこにもいない。
でも、どこかに〝自分が在る感じ〟はしていて、
現に、もう一人の存在がどこかにいなければ、
〝自分がいない〟ことにも気づけないはずだ。
その当時は、
湧き出す想いや感じとは別に存在している、
〝自分が在る感じ〟が何なのかが分からず、
ただ〝感じ〟とか〝それ〟と表現していた。
しかしいまは、それが無限の全体の感じ、
神の感じ、実相の感じ、愛の感じ、であり、
それこそが真実の自分でもあったと解かる。
それでようやく腑に落ちて分かったのが、
神や、実相や、兄貴(自分)、天国というのは、
人や場所やエネルギー体といった、
確固とした存在があるのではなく、
想いそのもの、感じることそのもの、
気配そのもののことだった、ということである。
様々な物や場所や出来事に神の気配を感じて、
つい、その気配の出所を探ろうとしてしまうが、
その気配自体がもう〝神〟だったのである。
感じ、気配、様子、感覚、味わう、エクスタシー、
何でもいいが、そこに神は在り、それしかない。
想いしかなく、それが実在だ。
しかし、その〝想い〟は内側でしか味わえない。
だから、神へ向かうには内側(背後側)へ向かう。
神 (想い)は自分の内側に充満している。
泡ぶくは消えるに任せる。
かといって、誤解を避けるために言っておくが、
何かを引き寄せるために神の想いは使わない。
(断固!きっぱり!👈あっやしーい!by 兄貴)