通りを行く見知らぬ人達が、なぜかみんな、
優しく、愛に満ちた、頼もしい存在に見える。
みんなが寄ってたかって、
僕を助けようとしているように思えて仕方がない
と、以前から連呼し続けてきたが、
最近、周囲の全ての兄弟たちが放つ、
〝我々が付いているから大丈夫感〟が、
以前にもまして半端なくなってきた。
そこで自分でも、ちょっとドン引きなのだが、
駅の構内を歩いていたり、バスに乗っていたり、
カフェの窓から外を眺めている時などに、
すれ違ったり、通り過ぎていく人々の、
外見や雰囲気だけを見て、
この人はどのように僕を助けてくれるだろう、
と空想してウキっとなるゲームを始めた。
例えば、
電車で、オタクっぽい学生が隣の席に座ったら
「この人は僕のパソコンを修理してくれる人」とか
眼鏡をかけたスーツのおっちゃんが前を通れば、
「この人は僕のお金を管理する会計士さん」とか
若い女子が二人、カフェで話していたら、
「彼女達は僕のサイン会に来てくれたファンの子」
というふうに、ただ外見や雰囲気から妄想して、
ひとり、彼らの愛を感じながら悦に入るのだ。
最近では、知的で個性的な女性を見かけると、
「パリで僕の小説の朗読会を主催してくれる人」
とか、菅井きんみたいなおばちゃんだったら、
「お節介だけど面倒見のいい近所のおばちゃん」
また、
どのカテゴリーに入れればよいか分らない人は、
もう、全員僕の熱烈ファン、みたいな…。
それで、
カッコイイ人や、こんな人になりたいなあ、
と、憧れるような人に遭遇すれば、
ああ、あれは次の生でやることになっている自分、
とまあ、どこまで自分やねん、という感じで、
すごく楽しい。
これって、
自分でもかなりイッちゃってると思う。
でもまあ、ブログも終わりに近づきつつあるし、
最後に読者の方々から、さあーっ、と、
ドン引きされて終わるのも悪くない。(笑)
しかしこの妄想ゲーム、
やればやるほど、自分の世界が愛で満たされ、
背後にウキっとした愛の感じが循環して、
本当にみんなが完璧な一つの愛の中に在る、
と実感できる。
なんていうか、
普段、あらゆる兄弟たちに対して感じている
何だかよくわからない〝愛の感じ〟を、
こういう形で意識的に捉えてみることで、
もっとパワフルに愛を感じることができる。
ただ、何度も何度も言うが、
肉体としての兄弟たちを見ているのではない。
無限の全体の〝ひとつ〟を、
それぞれの中に見ている。
要は、自分が創りだしている世界なので、
実際、その人がどうであるかは関係ないのだ。
そして、
ウキッ、ワクッ、キュン、な感じそのものが、
神という存在の在り方であり、
真実の自分の姿なのだ。