👆 向かいにめっちゃイカちい兄ちゃん登場。
終始睨まれているようで、ちとビビる。
でも、オレはオレを生きてるぜ、
みたいな感じで、なんかカッコいい。
今日は、トレーナーとの筋トレの後、
久々にビアカフェで9%のビールを飲みながら
アニータの本を読んで過ごした。
〝神とは存在ではなく、存在のあり方である〟
〝あらゆるものは無限の全体に属している〟
〝自分がありのままでいる許可を、
他人やマスターに求める必要などない〟
〝本当の自分でいて真実を生き、愛であること〟
3年前の自分だったら、
ああ、知ってる知ってる、で終わっていた言葉も、
実際にその言葉の中を生きてみると、
愛で存在するだけで、世界が癒されてゆくことを
まざまざとこの世界で体験できる。
赦しの過程で、
僕たちは以下のような循環をやりがちだ。
何で俺がこんな事を言われなきゃいけないんだ
👉 世界はない。だから自分のこの怒りも無い
あ、しくった。上司になんて言われるだろう
👉 罪なんかないし、上司も愛です
自分だけいつもハミゴにされるんだよなあ
👉 起こっていることに意味なんかない
うわっ、最悪や、ドツボや、マジ終わった
👉 全ては最善
ちょっと待ったぁー!
実際そうかもしれないが、切り替えが早すぎる。
自分の本音の想いが反映されて出てきたのを、
そんなものは無い、とねじ伏せてしまっている。
ムカつくーっ!こわいーっ!悲しい!悔しい!
をスルーしながら、世界を愛で見よう、
あの人は存在すらしていない、とやっても、
それこそ、まったく、意味がない!
「もっと大切に扱われたかったんだ」
「本当はこんなことなどしたくなかったんだ」
「本当は怖くて怖くてしかたないんだ」
こういった自分の本音の思いをパシッとつぶし、
世界はない、起こってない、これに意味はない、
とやっても、それはただ、自分の本心を直視する
恐怖から逃げているだけである。
無視された思いは、背後を通って、
他者の口から何度でも吐き出されてくる。
それを見てまた、意味はない、罪はない、とやる。
そうやって、無い無い、と延々やっている。
終わりないループ。
そんなのもう、悲劇を通り越して喜劇だよう。
苦しいよう、助けてよう、もう限界だよう、
といった自分の本当の気持ちを、感じて受け止め
理解してやれるのは他でもない自分だけである。
だから、決して、決して、
自分の気持ちを置き去りにしてはいけない。
その置き去りにしている思いこそが、
神の思いだった、ということに気づくべきだ。
と、今夜は少々酔っぱらい説教オッサン、
で、フィニッシュ!