最近、夕食を食べたらすぐ寝てしまうことが多い。
夜、九時頃に眠り、早朝4時くらいに目が覚める。
そして、それからが、なかなか眠れない。
まあ、別にそのまま起きていても構わないのだが
これで会社へ行くと、午前中が少々しんどい。
それで、体だけでも休めようとベッドに横たわり、
背後の全体を感じながら半瞑想で過ごす。
それで、今朝もそんな感じで眼を閉じていたら、
若い時に上司に叱られたときの光景や、
中学の同級生から言われた「アホか」のひと言や
ジムの浴室で6針縫う怪我をした時のこと、など、
普段は記憶の襞の中に埋もれて忘れ去っている
些細な出来事が次々と脳裏に去来しはじめた。
以前の僕なら、これら過去の記憶たちを、
神に繋がることを邪魔するエゴの〝雑念〟として
即座に〝エイヤー!〟と振り払っていただろう。
しかし、愛である位置から見てみると、
かつての僕が、嫌なもの、煩わしいものとして、
ぞんざいに切り捨ててきた過去の記憶の数々が
再び愛されようと現れてきているように感じた。
「本当は愛されたかったんだよう」と叫びながら、
湧き上がってくる小さな記憶のひとつひとつを、
僕は、愛として認め、愛として送り出しはじめた。
こうして、本当は愛だった記憶の数々を、
きちんと受け止め、見送ってやることで
彼らは愛となってうれしそうに消えていった。
ああ、これが〝贖罪〟(取り消し)を体験する、
ということなんだな、とこの時思った。
もちろん、愛として送り出せない記憶も出てくる。
父が亡くなる前日、LINEビデオで、
最後に父の顔を見ながら話したときのことだ。
話はできないが、意識はある父の顔を見ながら、
「お父ちゃん!僕が日本へ帰るまで頑張りや!」
と声をかけるや否や、父の傍にいた母が突然、
「あんた、コロナで大変やのに帰ってくるんかっ!
急に家に帰ってこられても何にもできひんし、
オリンピックが落ち着いてからでいいんちゃう?」
と、まくしたて始めた。
僕はとっさに、
「お父ちゃんを励ますため言っただけやろ!
そんな言い方せんとってくれ!」
と、強い口調で言い返した。
その時になって初めて母もハッとなったらしく、
ああ、そうか、と言って黙りこくってしまった。
こうした母とのやり取りの記憶もまた、
愛に昇華されようと湧き上がってきたが、
まだ記憶が直近すぎて赦すなんかできない。
なので、こういうのは無理に愛で見ようとはせず、
一旦スルー、放置しておく。
母も意地悪から言ったのではないし、
何と言っても親子なので、またしばらくすれば、
普通に愛として見送ることができるだろう。
とまあ、こんな感じで、小さな小さな記憶の断片を
愛として受け止めながら朝8時までベッドで過ごし
シャワーを浴びて会社へ向かった僕であった。