〝自分の内部に潜むあらゆる側面を愛したい〟
という意欲を自分に向けて差し出すことが
コースが言う〝少しの意欲〟の意味だ、
と理解が起きている。
どういうことかというと、
僕が無限の全体に繋がっている時は常に、
〝巨大な愛している〟の中で、
絶対的エクスタシーに包まれているのだが、
じゃあ、どのようにしてそういう状態に至るのか、
と考えた時、まず先に、自分の方から、
神と同じ周波数である、愛してるぅー、大好きぃー
という〝愛している感じ〟を、一瞬強烈に、
〝自分に向けて〟発振していることに気づいた。
こちらからほんの少しの〝大好き〟を発すると、
それと呼応するように、今度は神のほうから、
爆発的な悦楽と歓びの波が押し寄せてくる。
なので、真の故郷へと永遠に帰還する第一歩は
先ず自分の方から、
内側へ向かって〝愛〟を放つことであり、
それが父に差し出すほんの少しの意欲となる。
しかし、愛を放とうとすると、ついつい僕たちは、
兄弟を愛として見よう、とか、みんなが愛です、と
愛を放つ対象を相手側に向けてしまいがちだ。
ノー!ノー!ノー!である。
言いたい事を言えない自分、断れない自分、など
そこも大好き、自分の何もかもを引き受ける。
自分の内側をどこまでも慈しみ、愛でることが、
何よりも、誰よりも、どんなことよりも大切だ。
しかしそれは、何か事が起こるたびに、
「大丈夫だよ。愛してるよ。よしよし」と、
慰めのような言葉で肯定するのではない。
常に自分の中に流れているエネルギーだけを
ただただ強烈に〝放つ〟状態で在ることである。
神は存在ではなく、存在の在り方なので、
言葉にできない、想い、感覚、感じ、気配、
といった知覚の中に神は在る。
どうして、こんなにも〝自分〟なのかと言うと、
そもそも、自分が恐れを抱いている他者も、
不安を掻き立てる出来事も、心を癒す風景も、
全て自分の想いが創り出しているからである。
相手(外側)は自分が創り出した結果なので、
先ずは原因である自分を癒すことが先決となる。
じゃあ、この感覚や知覚はどこで感じられるのか
というと、それは身体である。
ドキドキ、ソワソワ、キュンキュン、ワクワク、
(僕の場合〝ムラムラ〟も多分に含まれる)(笑)
は、必ずボディのどこかで知覚されている。
僕の場合、以前はみぞおちで感じていたが、
今は身体全体で震えるように振動している。
こうして〝愛してます素粒子〟を飛ばし続け、
愛だけを放ち続けていると、
外側の、お金、生活の豊かさ、美貌、恋人、
といった〝持つことで愛や幸せを感じる〟
状態から、そんなものがあってもなくても、
〝愛の感じそのもので在る〟へと移行する。
自分の中で愛を感じることが先手になった上で、
生きたいように生き、やりたい事を思い切りやり
経済的豊かさや、恋愛や、セックスを味わえば、
それはもうまさしく、神との交流そのものである。
何度も何度も言うが、まずは自分が癒されないと
自分はいつまでも幻想としてここに居続け、
世界が存在すらしていないことにも気づけない。