日々の日常の中で、メインで嫌いな訳ではないが
なあんか気に障る、という人がいたりする。
例えば、
ゴミ出しとか、何かと細かい事にうるさい近所の人
いつも、仕事をうまく人に振る、ずる賢い同僚、
言動がいちいち気に障るテレビやネット上の人、
など、自分の周りに、ついついイラっと来てしまう
ちょっとウザい人がいるとき、それって、
ひょっとしたら、愛に変わろうとして出てきた、
過去や未来の自分かもしれないという話である。
というのも、最近、
あるコース兄弟のスピ動画をよく見ていて、
その人は、ご自分の今の境遇や心情、
そこからの気づきを、本当に正直に話されており
毎回、楽しく拝見しているのだが、その一方で、
「それって、ただの言い聞かせじゃないのか」
「人のことをどう、とかより、まずは自分だろう」
「それって、一言本人に言えば済むことじゃん!」
と、いちいち心の中でツッコみが発生するのだ。
このとき、ハッと気づいた。
いろいろ気づきが起こって、進んでいる自分が、
まだそこへ至っていない兄弟を見ながら、
それは違うんだよ、と心の中でチッとやっている。
これって、昔、僕が毛嫌いしていた、
コース教師の姿そのものではないか、と…。
自分にもそういう〝年頃〟があったにも関わらず
それは違うと他の兄弟を無意識に批判している。
ということは、
何年か前に自分が毛嫌いしていた教師たちは、
この2021年現在の自分だったということになる。
その当時、そういう教師ばかりが目について、
愛がない、と、いちいちピキッ、となっていたが、
これは、愛に変わりたい、愛されたい、と、
未来の今からやってきた僕の姿だった。
母親が子供に、上司が部下に、教師が生徒に、
お前、まだ分かってないなあ、とやるのは、
過去の自分に向かって、お前ダメだなあ、
とやっていることになり、それは自分に対して、
とても失礼で、愛のない行為であると言える。
なので、なんか気に障って仕方がない人がいる時
「ああ、愛されようと、過去から(または未来から)
自分が自分に会いに来ているんだなあ」
と、しみじみ認識してみる。
そして、
彼ら(私)を受け入れ、彼ら(私)に全てを委ねる時
初めて、あると思い込んでいた世界が消滅する。