コースは心の中の事のみを扱っており、
この夢の現実は、はなから起こってもいないので
現実で幸せになろう、とか、現実をよくしよう、
という想いは自我だと述べるコース兄弟がいる。
しかし、僕から言わせると、
今ここに在る神の愛を感じていれば、
現実は幸せで平安なものになって当然である。
それに、この世界で、もっとお金が欲しい、とか、
素敵な人と巡り合って愛し合いたい、とか、
辛い現状を変えたい、という望みは、
神の愛がほしい、と望んでいるのであり、
決して自我ではない。
逆に言えば、仕事でヘトヘトになっていたり、
人間関係に疲れ果てている現実がある時、
あなたはいま、
神を感じられていない状態にある、ということだ。
現実で疲労しながら、私は神に愛されています、
なんて絶対にあり得ないし、
現実で怒りや動揺を感じているのに、
私は何も感じていません、とやるのもおかしい。
👆 こういう〝心の中の裏通り〟を直視する
お金が欲しい、は、神の豊かさが欲しい、だし、
上司にイラッ、は、神から愛されたい、だし、
理不尽な要求に悔しい、は、神に認められたい、
という想いの裏返しである。
なので、
金が欲しくて欲しくてたまらなーいっ!
あの上司マジムカつくーっ!
何で自分がそんな事言われなきゃいけないんだ
という想いも、神の愛を欲する叫びである。
その想いをきちんと感じ、味あわせてやることなく
「これは起こってません。神だけを望みます」
と〝感じていないふり〟をするのはもう、
喜劇を通り越して悲劇でしかない。
神しか欲しくありません、とやる前に、
誰かに怒りを爆発させている自分、
(本当は神に愛されたくてたまらない自分)
あんな奴死ねばいいのに、と思っている自分、
(本当は神に認められたくて仕方ない自分)
疲れてへとへとになっている自分、
(本当は神の平安の中で安らぎたい自分)
を、ちゃんと感じて、味わい尽くしてやる。
思い切り、感情を爆発させてやることで、
自分を責めという自傷行為を消滅させるのだ。
実際、僕は、
このプロセスを経て、現実が神一色となった。
そういう意味で、現実をつぶさに観察することで、
自分の内側に隠されているものを見つけることが
可能となる。
そういう意味で、現実を直視するとは、
神を直視するのと同義語である。