コース兄弟の一般的な〝赦しの道〟というのは、
肉体を持って現実にいる間は赦しの実践を続け、
肉体を脱いだ時に神からの一歩を受け入れて、
永遠に父が待つ故郷へ帰還する、というものだが
そうであれば、肉体の死を迎える瞬間にはすでに
〝いっちょあがり状態〟でなければならない、
ことになる。
肉体を脱いでから目醒めるのではなく、
すでに目醒めた状態で肉体を脱ぐから、
神からの一歩を受け入れることができるのだと。
夢から完全に目醒めている状態、と言うと、
この夢の現実のことには何の興味もなくなり、
現実で起こっていることに何のジャッジもなく、
ただ何もせずに実相だけを感じている、
というようなイメージがある。
しかし、実際に神を感じながら生き始めると、
この夢の現実の全てに神が反映されてくるので、
苦しみも、歓びも、全て神という〝一つの感じ方〟
しかなくなり、大好きーっ、愛してるーっ、といった
神の想念の中で夢の現実を生きることになる。
なので、商売を頑張ろうが、セックスしまくろうが、
金儲けに邁進しようが、言いたいことを言おうが、
何をやっても神に直結され、神の表現となるため
神の子の自分がやりたいと思ったことを、
肉体を使って思い切りやりながら生きていても、
何の問題もない、と捉えられるようになる。
むしろ、やりたいことを表現して生きていなければ
どこかに抑圧があり、おかしい、とさえ思えてくる。
故に〝幸せな夢〟というのは、
本音の自分(👈ここ大事)がやりたいと思うことを
思い切り、この現実で楽しみながら表現しきった、
〝その先に〟待っているものだ、と思うのだ。
というのも、
確かにコースは心の中だけを扱っており、
たとえやりたいことができなかったとしても、
心の中で赦すことができればOKだ、と、
形而学上では言っているが、
「本当は思い切りこういうことがしたかったんだあ」
という、隠蔽されてしまった本音の思いを、
行動をともなった納得感なしに、
思いだけで赦し切るのはなかなか難しい、
というか、無理だ、と思うのだ。
だから、
先ずは思い切り自分のやりたい事をすればいい。
それも、陽気に、笑顔で、楽しみながら…。
「自分は自我の世界を楽しんでしまっている」
などという考えこそが罪悪感であり、自我である。
忘れてはいけない。
今自分が存在することの全てが神であり天国なのだ!