香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

目醒める時代

f:id:shusaku1:20211205190751j:plain

 

 

コース兄弟の一般的な〝赦しの道〟というのは、

 

肉体を持って現実にいる間は赦しの実践を続け、

 

肉体を脱いだ時に神からの一歩を受け入れて、

 

永遠に父が待つ故郷へ帰還する、というものだが

 

そうであれば、肉体の死を迎える瞬間にはすでに

 

〝いっちょあがり状態〟でなければならない、

 

ことになる。

 

肉体を脱いでから目醒めるのではなく、

 

すでに目醒めた状態で肉体を脱ぐから、

 

神からの一歩を受け入れることができるのだと。

 

 

f:id:shusaku1:20211205190716j:plain

 

 

夢から完全に目醒めている状態、と言うと、

 

この夢の現実のことには何の興味もなくなり、

 

現実で起こっていることに何のジャッジもなく、

 

ただ何もせずに実相だけを感じている、

 

というようなイメージがある。

 

しかし、実際に神を感じながら生き始めると、

 

この夢の現実の全てに神が反映されてくるので、

 

苦しみも、歓びも、全て神という〝一つの感じ方〟

 

しかなくなり、大好きーっ、愛してるーっ、といった

 

神の想念の中で夢の現実を生きることになる。

 

 

なので、商売を頑張ろうが、セックスしまくろうが、

 

金儲けに邁進しようが、言いたいことを言おうが、

 

何をやっても神に直結され、神の表現となるため

 

神の子の自分がやりたいと思ったことを、

 

肉体を使って思い切りやりながら生きていても、

 

何の問題もない、と捉えられるようになる。

 

むしろ、やりたいことを表現して生きていなければ

 

どこかに抑圧があり、おかしい、とさえ思えてくる。

 

 

故に〝幸せな夢〟というのは、

 

本音の自分(👈ここ大事)がやりたいと思うことを

 

思い切り、この現実で楽しみながら表現しきった、

 

〝その先に〟待っているものだ、と思うのだ。

 

 

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

 

 

というのも、

 

確かにコースは心の中だけを扱っており、

 

たとえやりたいことができなかったとしても、

 

心の中で赦すことができればOKだ、と、

 

形而学上では言っているが、

 

「本当は思い切りこういうことがしたかったんだあ」

 

という、隠蔽されてしまった本音の思いを、

 

行動をともなった納得感なしに、

 

思いだけで赦し切るのはなかなか難しい、

 

というか、無理だ、と思うのだ。

 

 

だから、

 

先ずは思い切り自分のやりたい事をすればいい。

 

それも、陽気に、笑顔で、楽しみながら…。

 

「自分は自我の世界を楽しんでしまっている」

 

などという考えこそが罪悪感であり、自我である。

 

忘れてはいけない。

 

今自分が存在することの全てが神であり天国なのだ!