正月早々、自我の話で大変恐縮なのだが、
自我のもっとも大きな必殺技は何かと考えた時、
それは何といっても〝自他の比較〟だろう。
自分の肉体と他者の肉体、私の地位と彼の地位
正社員と契約社員、自分の子供と他の子供、
日本人と中国人、お金持ちとそうでない人、
または、あの人は神への理解が進んでいるのに、
自分はまだまだこんなところにいる、というふうに
自分と他者の間に違いを見て比較することで、
内面に無価値観や罪悪感や優越感を生じさせ、
それが過度な頑張りや競争となって、
この物質世界に表われてくる。
そして、最近、僕の中で、
こういった〝違いを見て比較する〟という感情が
どんどん消滅しつつあるのだ。
僕に何が起こっているかというと、
自分と他者が、くるっと反転してしまったというか、
他者の方が自分だ、みたいな感覚になっている。
これも本当に説明が難しいのだが、例えば、
ジムで体を鍛えていると、周囲には、当然、
自分より若くてマッチョでいい体をしている人が、
たくさんいるわけだが、以前の自分だったら、
自分はまだまだだ、もっと頑張らねば、とか、
自分にはとても無理だ、と焦りを感じていたが、
今は、ムキムキなあの兄弟こそが自分なのだと、
比喩ではなく、本当にそう知覚されているのだ。
そういうふうに〝感じている〟のでもなければ、
他者の幸せを自分のことのように喜んでいる、
というような概念的な信念でもない。
自分と他者が入れ替わっていても何ら問題はない
というか、全てが自分、として捉えられている。
友人が成功して大金持ちになったら、
自分が成功して大金持ちになっている。
友人の成功を見て幸せな気持ちになっている
というような低レベルなものではなく〝自分〟が
成功した金持ちそのものになっているのだ。
逆に、自分が至福を味わえば味わうほど、
それは他者の幸せである。
なので、自分が損をしないように、
相手から少しでも多く奪おうという行為は、
僕に言わせれば、他者から奪っているのではなく
自分から多くを奪っている。
ここまで書いてきて、ふと気づいた。
これこそが、自我の消滅なのではないのか、と…。
違いを見て比較するのを止めることで
自我がなくなるのではなく、
比較する対象を間違えていたことに気づくことで
自我は自然と消滅するのだ。