香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

なんでも神様

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顕われてくる想いそのものが神であり愛であり、

 

それを生ききることが自分にできる唯一のことだ

 

と言ってしまうと、、僕がこれまで述べてきた、

 

自分責めをやめる、とか、自分を癒す、とか、

 

自分に訊く、ということと矛盾するのではないか、

 

と思う人もいるが、実際には全く矛盾しない。

 

 

そもそも、自分をバリバリ実在させている段階で、

 

いきなり、自分はない、世界は幻想だ、神だけだ

 

と、一気に真逆へ舵を切ろうとしても無理がある。

 

湧いてくる想いそのものが神であり愛であり、

 

と、聞いただけでそうなれたら世話はいらない。

 

 

形而上学の理論を学んでいると、

 

自分を責めない、内側に訊く、自分を癒す、

 

ことに対して、どこか自己を強化させているようで、

 

どうしても、抵抗が出てしまったりする。

 

本当は、素敵な人と燃えるような恋をしたいのに、

 

美しく着飾って、歌って踊ってしたいのに、

 

お金を稼いで憧れの生活を送りたいのに、

 

または、世界中を旅してみたいのに、

 

そんなことはどうでもいいんです、とやってしまう。

 

 

blog.hoshitani-shusaku.com

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ちがーうっ!

 

その顕われている望みこそが神の想念であり、

 

その望みを〝正直に〟生ききることが、

 

神の想いを生ききることである。

 

 

また逆もしかりである。

 

あの人に比べて自分は、とか、なんてイヤな人、

 

とか、そんなおぞましいことを考えている自分、

 

といったものも〝愛の想い〟であり、

 

それ自体がもう天国のエクスタシーであり、

 

実存の顕われだった。

 

それ以上、何も変える必要がない。

 

 

でも、神を感じていないのに頭だけで理解をして

 

いきなり行動をしても意味がないので、故に、

 

まずは本音はどうしたいか、から始めるのだ。

 

 

例えば、愛する人と燃えるようなセックスをしたい

 

という望みを、赦しても、赦しても、赦しきっても、

 

その〝本音〟を叶えるために、

 

またこの夢の界に戻ってくることになる。

 

 

本音の本音の、

 

コノヤロー、と思っているのに、

 

人を憎むなんておぞましくて絶対にイヤ、

 

と思っていれば、次から次へと相手から憎まれる。

 

 

だから、本音をきちんと認め、受け入れ、

 

その中を生きたとき、それも愛だったと解かる。