顕われてくる想いそのものが神であり愛であり、
それを生ききることが自分にできる唯一のことだ
と言ってしまうと、、僕がこれまで述べてきた、
自分責めをやめる、とか、自分を癒す、とか、
自分に訊く、ということと矛盾するのではないか、
と思う人もいるが、実際には全く矛盾しない。
そもそも、自分をバリバリ実在させている段階で、
いきなり、自分はない、世界は幻想だ、神だけだ
と、一気に真逆へ舵を切ろうとしても無理がある。
湧いてくる想いそのものが神であり愛であり、
と、聞いただけでそうなれたら世話はいらない。
形而上学の理論を学んでいると、
自分を責めない、内側に訊く、自分を癒す、
ことに対して、どこか自己を強化させているようで、
どうしても、抵抗が出てしまったりする。
本当は、素敵な人と燃えるような恋をしたいのに、
美しく着飾って、歌って踊ってしたいのに、
お金を稼いで憧れの生活を送りたいのに、
または、世界中を旅してみたいのに、
そんなことはどうでもいいんです、とやってしまう。
ちがーうっ!
その顕われている望みこそが神の想念であり、
その望みを〝正直に〟生ききることが、
神の想いを生ききることである。
また逆もしかりである。
あの人に比べて自分は、とか、なんてイヤな人、
とか、そんなおぞましいことを考えている自分、
といったものも〝愛の想い〟であり、
それ自体がもう天国のエクスタシーであり、
実存の顕われだった。
それ以上、何も変える必要がない。
でも、神を感じていないのに頭だけで理解をして
いきなり行動をしても意味がないので、故に、
まずは本音はどうしたいか、から始めるのだ。
例えば、愛する人と燃えるようなセックスをしたい
という望みを、赦しても、赦しても、赦しきっても、
その〝本音〟を叶えるために、
またこの夢の界に戻ってくることになる。
本音の本音の、
コノヤロー、と思っているのに、
人を憎むなんておぞましくて絶対にイヤ、
と思っていれば、次から次へと相手から憎まれる。
だから、本音をきちんと認め、受け入れ、
その中を生きたとき、それも愛だったと解かる。