春節の6日間、ずっと家でお籠りをして過ごした。
しかも、ネット、スマホ、テレビ、を一切遮断し、
パソコンも見ず、時計の電池も抜いて、
食事と入浴と睡眠の時以外、ただ、ぼーっと、
今この瞬間の〝在り様(よう)〟だけでいた。
(気づいている状態とか、そういうのではない)
まあ、自分が最もやりやすい自己流なのだが、
普段の瞑想のように音楽を聴いたりはせず、
かといって、禅のように足を組んだりもしない。
ただ、ソファに足を投げ出してくつろぎ、
見えるもの、聞こえるもの、感じるもの、を、
ただ事実のままに、ただただ放っておくのだ。
ただ、これだけで6日間…。
時間が分らないので、何とも言えないが、
一日15時間くらいやってたと思う。
ヴィ瞑想に似ているが、もっと直かに、
外界にむき出しになっている自分の心(神)を、
考えで歪めず、ありのままの事実として在るだけ。
内へ向かうのでもなく、気づこうとするのでもない。
真理に気づく、思考を見る、愛を感じる、など、
何か特別な体験をしたい自分を一切相手にせず
徹底的に何もしない。
説明が困難なのでこれ以上書かないが、
先月、競馬場からインスタで配信したときから、
ずっともやもやしていた〝自分が無い感じ〟
の真相を、この際、はっきりさせたかったのだ。
最初の二日間は予想通り、すっごくしんどかった。
昔、誰かが言った一言から妄想劇場が始まり、
ああしてやる、こうしてやる、となり、また逆に、
床にある小さな汚れが気になって仕方がなくなり、
意味のないつぶやきが延々湧いて出てきたりと、
お決まりのコースをたどっていた。
ただそんな思考も、放っておこう、見過ごそう、
とするのではなく、ただ悶絶のままでいる。
気分が悪いなら悪いままでいる。
そうしよう、という自分、何かをしようとする自分
さえもを一切放擲する。
それで三日目くらいには疲れ切り、どうにでもなれ、
と、一旦ふてくされて開き直った。
ベッドの上でぼーっとふて寝しているうち、
寒かったらブランケットを取り出して被り、
眩しかったらカーテンを閉め、胃がキュッとしたら
腹が減ったから何か食べる、というふうに、
無意識に動いていることに気づいた。
起こることがその瞬間その瞬間に勝手に起こり、
勝手に完結して終わっていっている。
完璧に起こって、カタがついて無くなっている。
大失敗したあの瞬間、恥ずかしかったあの瞬間、
ああしておけば今頃は、という後悔の瞬間、
その時その時で完璧にそこで完結し、
見事なくらいに、跡形もなく終了している。
起こっていることに委ねるんだ、とか、
ただ放っておくんだ、とか、そのままでよかった、
というような〝やり方〟や〝考え方〟ではない。
そもそも、何かをしている自分など〝無い〟。
どんな不快な感情も、癒やす必要がない。
完璧にそこで終わっている。今、この瞬間も…。
説明すればするほど違ってくるので省略するが、
そこから、
すーっと何かが抜け落ちたように、楽になった。
目や耳や鼻や口や肌を通じて認識している
と思っていた世界の活動が、
首から上にドーンと乗っかっているような感じ。
顔や頭が無くなって、首から上がそのまま世界、
みたいな…。
そして、それだけだったんだ、という真実…。
というわけで、今日は、久々に娑婆に出て、
カフェでこの文章を書いている。
これ以外どこへも行かないし、どこかへ行くような
自分という主体もいない。
その瞬間瞬間で完璧に起こることが起き、
しいて言えば、それが神であり愛である。
それを感じに行こうとする自分が邪魔だった。