👆 近所のPCR検査場。現在1040人目。
今日の検査は締め切りました、とある。
お金が欲しい、素敵な恋人にめぐり会いたい、
安定した職に就きたい、起業して成功したい、
痩せてナイスバディになりたい、健康でいたい、
といった現世的な願望と、
父が待つ故郷へ永遠に帰還したい、赦したい、
悟りたい、神を感じたい、本当の自分を知りたい、
苦しみから解放されたい、宇宙人と交流したい、
といったスピリチュアル的な願望は、
安心したい、いい気分でいたい、ラクになりたい、
という目的において同じものである。
逆に言うと、僕たちは、
いい気分でいたいからお金が欲しいのであり、
安心したいから恋人に巡り合いたいのであり、
ラクになりたいから悟りたいのである。
また、何もしない、ただ受け入れる、といった
全ての願望や欲望を放棄することでさえ、
その底辺には、
開放されてラクになりたい“私”が潜んでいる。
👆長蛇の列のPCR検査場
アパートで感染者が出れば、
住人全員が検査となる
なので、
現世的な探求にせよ、精神的な探求にせよ、
その裏では、ラクになりたい、平安でありたい、
という共通の同じ願望が〝走って〟いるため、
悟りや赦しを実践している人が、金儲けをしたり、
愛欲にまみれるのは自我であり、いけないこと、
というのはまったくもってナンセンスである。
もっと突き詰めて言えば、神の愛を感じたい、
解放されたい、悟りたい、と思った時点で、
それを望んでいる個人がおり、自我である。
僕の場合、最初は深く自分の内面に入り込み、
自分責めを止めることで自分の心を癒し、
そうすると、神の愛を感じられるようになり、
最終的には、神を感じている自分も存在せず、
ただ神そのものだけが在る、となった。
それが最近ではもっと進んで、
神は、見えているもの、聞こえているもの、
感じているものとして、それ自体としてここに在り、
それだけ(神だけ)が顕われている、となっている。
もちろん、自分がいるという〝思い〟は現れるが、
その都度決着しては消えてゆき、それを捉えて、
ああだこうだ言っている自分はどこにもいない。
今日、僕が住むアパートでコロナ感染者が出て、
今後、配達も含めて外部の人間の出入りが
厳しく制限されることになった。
どうしよう?もう嫌だ!いつ日本に帰国できる?
といった不安感や憂鬱感が込み上げてくるが、
完璧に終わっていっていて、何の問題もなく、
何かをする自分もなく、何もする必要もなく、
きちんと跡形もなく消えていってくれていること、
それこそが神の愛である。