香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

むき出しのそれ

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⇧ 午後10時のタイムズスクエア

  人っ子ひとりいない

  飲食店が夜6時までなので、

  みんな家でご飯を食べているのか?

 

 

前回の記事で、個の自分などどこにも存在せず、

 

視覚(目)、聴覚(耳)、味覚(舌)、嗅覚(鼻)、

 

触覚(肌)、思い(脳)、といった身体的機能が

 

自分という気配を作り出しているという話をしたが

 

もう一言付け加えるなら、これら6つの感覚に

 

何ら関連性は無く、独立した別個の現れである。

 

 

例えば、目の前を救急車がピーポーピーポーと

 

音を鳴らして通り過ぎて行ったとする。

 

この時、僕たちは、このサイレンの音は、

 

救急車から発せられていると思っている。

 

しかし、実際には、ただ白くて四角い箱が、

 

目の前を移動してゆき、それとは全く別に、

 

ピーポーピーポーが聞こえているだけである。

 

救急車がサイレンを鳴らして通り過ぎた、

 

ではなく、ただ白く四角い箱が移動してゆき、

 

また、それとは全く関係のないものとして、

 

ピーポーピーポーと音がしているだけである。

 

なのに、見えたものと聞こえたものを関連付け、

 

救急車が患者の所へ向かっている、という思いを

 

自動反応的に立ち上がらせている。

 

そして、これら6感の複合的な反応から立ちあが

 

ってくる来る気配を〝自分〟だと思っている。

 

 

しかし、実際のところをようくようく見てゆくと、

 

救急車がサイレンを鳴らして通り過ぎた、という

 

認識が起きる(私の思いが立ち上がる)前から、

 

普遍ですでに赦され切った事実の活動が

 

ただ起きている。

 

それは、

 

今この瞬間瞬間に起こっている様子の連続

 

(何の変哲もない普通の日常で起こってくる事)

 

そのもので在りさえすれば、見ようとしなくても、

 

すでにはっきりと〝見えて〟いる。

 

 

 

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⇧ 運輸の乱れで僕のお気に入りのチリワイン

  モングラスが長いこと入荷されてこない

  仕方なく、スペインのワインを飲んでいる

 

 

例えば、エゴに反応しない、思考を解釈しない

 

座禅や瞑想、聖霊に委ねる、自分でやらない、

 

赦し、受け容れる、今この瞬間に在る、といった、

 

奇跡講座をはじめとする様々なスピ的実践も、

 

〝自分(自我)〟の気配を消すことによって、

 

事実へ〝還る(触れる)〟為のものだと言える。

 

 

便宜上、神、神の子、聖霊、ひとつなるもの、

 

愛の感じ、ハイヤーセルフ、等と呼んだりするが

 

実際には、言葉で表現できるようなものはなく、

 

あえて言うなら、

 

〝知ることができないもの〟〝不可知なるもの〟

 

としか表現できない。

 

 

近々、インスタライブで、

 

ここら辺の事を詳しく語ろうと思うが、

 

昼間がいいか、深夜がいいか、迷っている。

 

限定になると思うのでfollowお願いします。

 

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