香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

捧げ切れ!

 

 

『迷路の外には何がある?』を読んでからというもの、

 

無意識の信念を変える、自己イメージを変える、

 

親や先生から刷り込まれた古い信念を手放し、

 

愛と調和に満ちた新しい信念へと変換するのだ、

 

みたいな方向へと、いつのまにか舵がブレていた。

 

 

それで、ダグラス・ハーディングの『頭のない男』を、

 

再読してみようとふと思い立ち、カフェで読み始めたら、

 

いきなり兄貴の声がバシーン、と頭の中でこだました。

 

 

「君はすでに捧げ切り、実相が明白になったのだから

 

 チマチマと信念を変えたり、解釈を捻じ曲げようとせず、

 

 過去や未来のあれこれを全部〝私〟に捧げ切って、

 

 落ち切った在りようの今を生きていればよい」

 

 

えっ?この声を聴いた瞬間、全てがまっさらになった。

 

よく、この世界は幻想です、とか、夢の映像だ、とか、

 

実相の上にエゴの概念を被せてみている、

 

などと言ったりするけれど、いやいやいや、

 

もうここにある全てが実相の活動そのものであり、

 

自分無しで、直に、そのまま、距離ゼロで開いている。

 

それは無機質なものでも、静寂なんかでもなく、

 

形容しがたい法悦の姿で満たされきっている。

 

(※本当は、このような表現さえも間違っているので、

 

  参考程度に読んでくだされば幸いです)

 

 



 

これら(実相)は、常にむき出しで顕われており、

 

想いや感情も、見えているものと分離していない。

 

だから、ある人を見て怒りが湧いてきたりしても、

 

見えているその人と怒りは分離などしてはおらず、

 

その人を見ている自分や怒りを感じている自分もなく、

 

それ自体で赦されきった実相として脈打っている。

 

 

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カフェで向かいの席に座って勉強をしている学生、

 

視界の隅からぱっと顕われ、通り過ぎてゆく美女、

 

コーヒーを口に運んで味わっている自分、

 

これらは皆、反映とか投影とか夢の映像とかではなく

 

実相そのものである。

 

実相という到達できる特別な領域があるのではなく、

 

ゼロの距離で今このままで実相なのだ。

 

〝二つの窓〟から世界を見ている誰かもいなければ、

 

幻想を映し出している自我の映写機や、

 

ひとつなるもの、みたいなものがあるわけでもない。

 

「ああ、見えているこれが実相そのものだったんだ」

 

「ああ、この人の中に実相を見ている」

 

というのも完全に間違っている。

 

 

一人暮らし開始後に、一度インスタライブします。

 

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@hoshitani