香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

兄貴に背負い投げ

👆普段エアコンのある和室で創作をしているが、

  いつもこのフクロウの目に優しく癒されている

 

 

自分の信念、湧き出てくる思い、見えているもの、

 

聞こえているもの、起こっているもの、世界の全てを、

 

聖霊兄貴に捧げ切るとはどういうことなのかというと、

 

それは、ただ捧げて何もしない、ということである。

 

 

どういうこっちゃ、と叫びたくなるのだが、例えば、

 

お金がなくて今月の支払いどうしよう、となったとき、

 

「ああ、どうしようどうしよう、貯金を取り崩して、

 

あそこの支払いを待ってもらって、ああしてこうして」

 

の想いのまま捧げて何もしないのである。

 

どうしよう、どうしよう、のままでいいのである。

 

聖霊に捧げたら、お金について解決してくれる、とか

 

聖霊に思いを捧げたのに、まだ考えてる、とか、

 

ましてや「聖霊、この間違った思いを正してください」

 

などといった余計なことを一切するな、ということである。

 

道を歩いている時も、仕事をしている時も、食事中も、

 

瞬間瞬間、起きているそのものを捧げるだけだ。

 

自分も、他者も、思いも、空も、木々も、全部捧げる。

 

結果を期待してしまったら、期待してます、と捧げる。

 

何とかしたい、どうしよう、と思ったら、

 

それを捧げて、何とかしたい、のままでいればいい。

 

捧げたらそれが〝消える〟というのは単なる思い込みだ。

 

切羽詰まっている時って、兄貴に思いを捧げた後も、

 

この苦悩が最後どうなるのかを知りたい、と思うが、

 

それもまた兄貴に〝背負い投げ~っ!〟である。

 

統合でも、赦しでも、座禅でも、その行為をしたら、

 

原因となる信念がなくなって完結すると思いがちだが、

 

そうではなく、

 

背負い投げられたままの在りようでずっと生きている。

 

 

こうやって、出てくる想いや新年を、

 

どこまでも兄貴に捧げ続けた〝ままでいる〟と、

 

だんだん、自分というものが〝脱け落ち〟てくる。

 

そして、

 

完全に自分が落ち切った瞬間、実相が明らかになる。

 

距離ゼロで即6感(視覚/聴覚/味覚/触覚/嗅覚/想い)

 

となり、禅の〝悟り〟と同じ、最終解脱する。

 

 

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そういう意味で、

 

僕の前に兄貴が体を持って姿を現したのは、

 

兄貴を信頼することを学ぶ上で、とても重要だった。

 

兄貴は、ただ信じるしかない架空の存在などではなく、

 

本当に僕と共にいて、僕を完全に赦し、

 

全肯定してくれていると、心から体得できたからだ。

 

 

こうして、あらゆるコントロールがなくなった時、

 

なにがあっても大丈夫、がつまびらかになる。