👆普段エアコンのある和室で創作をしているが、
いつもこのフクロウの目に優しく癒されている
自分の信念、湧き出てくる思い、見えているもの、
聞こえているもの、起こっているもの、世界の全てを、
聖霊兄貴に捧げ切るとはどういうことなのかというと、
それは、ただ捧げて何もしない、ということである。
どういうこっちゃ、と叫びたくなるのだが、例えば、
お金がなくて今月の支払いどうしよう、となったとき、
「ああ、どうしようどうしよう、貯金を取り崩して、
あそこの支払いを待ってもらって、ああしてこうして」
の想いのまま捧げて何もしないのである。
どうしよう、どうしよう、のままでいいのである。
聖霊に捧げたら、お金について解決してくれる、とか
聖霊に思いを捧げたのに、まだ考えてる、とか、
ましてや「聖霊、この間違った思いを正してください」
などといった余計なことを一切するな、ということである。
道を歩いている時も、仕事をしている時も、食事中も、
瞬間瞬間、起きているそのものを捧げるだけだ。
自分も、他者も、思いも、空も、木々も、全部捧げる。
結果を期待してしまったら、期待してます、と捧げる。
何とかしたい、どうしよう、と思ったら、
それを捧げて、何とかしたい、のままでいればいい。
捧げたらそれが〝消える〟というのは単なる思い込みだ。
切羽詰まっている時って、兄貴に思いを捧げた後も、
この苦悩が最後どうなるのかを知りたい、と思うが、
それもまた兄貴に〝背負い投げ~っ!〟である。
統合でも、赦しでも、座禅でも、その行為をしたら、
原因となる信念がなくなって完結すると思いがちだが、
そうではなく、
背負い投げられたままの在りようでずっと生きている。
こうやって、出てくる想いや新年を、
どこまでも兄貴に捧げ続けた〝ままでいる〟と、
だんだん、自分というものが〝脱け落ち〟てくる。
そして、
完全に自分が落ち切った瞬間、実相が明らかになる。
距離ゼロで即6感(視覚/聴覚/味覚/触覚/嗅覚/想い)
となり、禅の〝悟り〟と同じ、最終解脱する。
そういう意味で、
僕の前に兄貴が体を持って姿を現したのは、
兄貴を信頼することを学ぶ上で、とても重要だった。
兄貴は、ただ信じるしかない架空の存在などではなく、
本当に僕と共にいて、僕を完全に赦し、
全肯定してくれていると、心から体得できたからだ。
こうして、あらゆるコントロールがなくなった時、
なにがあっても大丈夫、がつまびらかになる。