香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

檻の中で「俺は自由だ!」と叫んでいる

 

 

日本に帰国してから、高野山へ行ったり、

 

父の一周忌だったり、昨日は母方のお墓参り、と、

 

なんだか、線香くさいことばかりしているボク、

 

であるが、お盆も過ぎ、

 

それもようやくひと段落、といったところである。

 

 

というわけで、

 

お盆の〝檻からの脱出シリーズ〟続けます!

 

 

最近、ふと思うのは、過去や未来のために、

 

今を制限することがなくなったなあ、ということだ。

 

僕の場合、今を制限しなければならない理由の多くは

 

仕事がらみのことだったのだが、

 

例えば、あともう一杯ワインを飲みたいのだけれど、

 

明日に差し支えるからやめておこう、とか、

 

面白いドラマを最後まで見てしまいたいのだけれど、

 

明日は仕事で7時起きだからもう寝よう、とか、

 

そのくせ、寝なきゃ寝なきゃ、と思えば思うほど眠れず

 

窓の外が白むのを見てドキドキ焦る、みたいな…。

 

また、仕事の中で、こうした方がいいのでは、と、

 

自分の意見を言いたいのだが、何て言われるだろうと

 

びびってしまい、まいっか、とやめてしまったりとか…。

 

 

👆 お盆の〝精霊船(しょうろうぶね)〟
    近くの川へ流す

 

 

別に、こうした一つ一つの事柄が問題なのではない。

 

どうして、過去や未来を気にして、

 

〝今在る喜び〟(神の大好き)を放棄してしまうのか、

 

問題はそこにある。

 

 

これもまた、自分が作った檻なのだなあ、と思った。

 

自我は過去や未来にしか存在できないので、

 

過去や未来に僕たちの意識を向けさせることで、

 

今この瞬間にある神(赦され切った事実)から

 

目を逸らせ、幻想の檻を存続させようとする。

 

〝未来〟をちらつかせて〝今〟を脅すのだ。

 

 

だからと言って、

 

今ワインをもう一杯飲みたいのなら飲めばいい、とか、

 

言いたいことは今言おう、という話ではない。

 

実際、自分でコントロールできることなど何もなく、

 

ただここで、そのままの想いを捧げ切るしかない。

 

 

👇 お盆いろいろ

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じっと捧げて何もしない。

 

見えているもの、聞こえているもの、感じているもの、

 

想い、感情、体の感覚、全部兄貴に捧げて何もしない。

 

それが、幻想の檻から出るためにできる唯一のことだ。

 

 

僕は、実際に兄貴の姿が見えたりするので、

 

本当に兄貴は実在していて、

 

僕が捧げたものを本当に受け取ってくれることが

 

体感で解かる。

 

 

たとえ実体として見えなくても、兄貴は本当にいて、

 

そっちが真実であるのは、自分に向かえば解かる。