日本に帰国してから、高野山へ行ったり、
父の一周忌だったり、昨日は母方のお墓参り、と、
なんだか、線香くさいことばかりしているボク、
であるが、お盆も過ぎ、
それもようやくひと段落、といったところである。
というわけで、
お盆の〝檻からの脱出シリーズ〟続けます!
最近、ふと思うのは、過去や未来のために、
今を制限することがなくなったなあ、ということだ。
僕の場合、今を制限しなければならない理由の多くは
仕事がらみのことだったのだが、
例えば、あともう一杯ワインを飲みたいのだけれど、
明日に差し支えるからやめておこう、とか、
面白いドラマを最後まで見てしまいたいのだけれど、
明日は仕事で7時起きだからもう寝よう、とか、
そのくせ、寝なきゃ寝なきゃ、と思えば思うほど眠れず
窓の外が白むのを見てドキドキ焦る、みたいな…。
また、仕事の中で、こうした方がいいのでは、と、
自分の意見を言いたいのだが、何て言われるだろうと
びびってしまい、まいっか、とやめてしまったりとか…。
👆 お盆の〝精霊船(しょうろうぶね)〟
近くの川へ流す
別に、こうした一つ一つの事柄が問題なのではない。
どうして、過去や未来を気にして、
〝今在る喜び〟(神の大好き)を放棄してしまうのか、
問題はそこにある。
これもまた、自分が作った檻なのだなあ、と思った。
自我は過去や未来にしか存在できないので、
過去や未来に僕たちの意識を向けさせることで、
今この瞬間にある神(赦され切った事実)から
目を逸らせ、幻想の檻を存続させようとする。
〝未来〟をちらつかせて〝今〟を脅すのだ。
だからと言って、
今ワインをもう一杯飲みたいのなら飲めばいい、とか、
言いたいことは今言おう、という話ではない。
実際、自分でコントロールできることなど何もなく、
ただここで、そのままの想いを捧げ切るしかない。
👇 お盆いろいろ
じっと捧げて何もしない。
見えているもの、聞こえているもの、感じているもの、
想い、感情、体の感覚、全部兄貴に捧げて何もしない。
それが、幻想の檻から出るためにできる唯一のことだ。
僕は、実際に兄貴の姿が見えたりするので、
本当に兄貴は実在していて、
僕が捧げたものを本当に受け取ってくれることが
体感で解かる。
たとえ実体として見えなくても、兄貴は本当にいて、
そっちが真実であるのは、自分に向かえば解かる。