香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

君は何を感じているのか?

昨日は旧友と午前三時まで梅田で飲んだ
喫茶店で一旦酔いを醒ます。

学生時代にも通っていた喫茶『アンティーク』

 

 

何かに対して、罪悪感や不安感や恐怖感を感じる時、

 

みぞおちの奥がギンギンと疼く。

 

また何かに対して、感謝や愛や悦びを感じる時、

 

同じようにみぞおちの奥がキュンキュンと高鳴る。

 

僕たちは、罪悪感と悦びを同じ場所で感じている。

 

そして、罪悪感と悦びは同じものなのだ。

 

 

実相(神/愛/悦び)の想念を、

 

罪悪感や不安感として感じてしまっている原因は

 

〝解釈してしまうこと〟にある。

 

非二元の〝これがあるだけ、これしかない〟も、

 

バシャールの〝ワクワクでないものを手放す〟も、

 

仏教の〝解脱する〟も、奇跡講座の〝罪は無い〟も

 

全ては〝解釈が落ち切る〟ことを示している。

 

 

じゃあ、解釈が落ちる、とはどういうことかというと、

 

〝本当に在るものを悦びとして観じる〟ことであり、

 

自分の心が神で満たされている状態の反映として

 

世界が〝観えて〟いることを指す。(観るのではない)

 

それにはまず、

 

体験でしか感じられないものを智覚することである。

 

例えば、ワインを飲んで味わっている時、その味は、

 

自ら体験しない限り、決して味わえないものである。

 

他人がワインの味について説明されても、

 

決してその味を真に理解することはできない。

 

その決して言葉では説明できないもの、

 

解釈では知りえない〝感じ〟こそが実相の感覚である。

 

なので、僕たちはワインを味わっていると思っているが、

 

本当は、神(実相)の悦びをワインとして味わっている。

 

 

よって、解釈が落ちれば、

 

ワインという解釈の裏に、あの人という解釈の下に、

 

完璧な天国(実相)が在り、それが法悦そのもの、

 

永遠のオーガズムとして体験されてくる。

 

だから、ただ起こることが勝手に起こっているだけ、

 

といった、非二元みたいなことにはならない。

 

 

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兄貴に捧げるとは、解釈したことを捧げるのではない。

 

不快な感じ、動揺している感覚、を解釈なしに、

 

ダイレクトに兄貴に捧げてしまうのである。

 

赦しや、統合や、禅や、周波数手放し、オポロポロ、

 

何でもいいが、これらは頭ややり方でやるのではなく

 

心の感覚で行なう。

 

捧げたら、言葉を使わず、感じ方で実相の声を聴く。

 

それは、神の味を、解釈でワインの味にしない、

 

ということである。

 

 

というわけで、

 

やっと愛に戻ってきた今日この頃のボクである。