👆 実家の裏にある家
市の保護文化なんちゃらに指定されているらしい
今日はジムで久々に全身を鍛えた。
いつもは、一回一部位でトレをしているが、
今日は、なんだかすごく体を動かしたくなり、
80KGでスクワット👉20KGでヒップシット👉背筋
65KGでダンベルプレス👉腹筋👉ランニング、と、
少しづつ全身を鍛え、集中して一時間でまとめた。
それから、9月から市内で一人暮らしをするので、
使用するジムを梅田支店に変更する手続きもした。
ゴールドジム高槻は年齢層高めなのだが、
梅田はバリバリのビルダーが多いので、頑張る!
今は実家で白米を食べているが、引っ越し後は、
タンパク質中心の食生活に変えて体を絞り、
人の少ない深夜にトレをするようにする。
創作が煮詰まってきた深夜3時に、自転車に乗って、
深夜の梅田を散策がてら、ふらっとジムへ行き、
帰りに早朝の珈琲館でアニータ三昧…が目下の夢だ。
(👆お前は一体どこへ向かってるんや!👈by 兄貴)
話はころっと変わって、ここ連日お伝えしているように、
夢の外側に出たことで〝自分〟というものが消失し、
言葉には尽くせない人間の理解を越えた〝ありよう〟
のまま日々を過ごしているのだが、日常では普通に、
イラっともするし、何やねんコイツ、と思ったりもする。
ただ、世界という解釈がごそっと脱け落ちているので
それが〝罪悪〟にならない感じである。
夢の中に居たままで、いくら、罪悪はない、幻想だ、
と叫んでも、全く意味がない、と断言できる。
罪悪も愛である、ということが理解できないのだ。
じゃあ、夢の外にはどうやって辿り着くのか、
と探り出す(考え出す)とわからなくなってしまう。
敢えて言うなら、ちゃんと見たら、もうここにある。
しかし、もうここにあるものに気づこう、とすると、
またわからなくなる。
怒り狂っている人を見て、愛を求めて叫んでいるんだ、
悲しんでいる自分に、本当は愛されたかったんだ、
と解釈で〝わかろう〟とするのではなく、
それを本当に〝感じ〟られれば、
罪悪と思っていたものが愛だった、と体感できる。
日々の生活の中で感じていない人はいないと思うのだ。
ただ、
左脳優位の男性や、お勉強ができる優等生の人達は、
どうしても、感じていることを理解しようとしてしまう。
神の想いを体験するために形而上学はあるのに、
この感じているものの正体はこういう構造になっていて
こうやってああやって、だからこれを感じることができる、
という風に、脳が理解するための手段にしてしまっている。
直視している罪悪感の正体は何なのか、ちゃんと感じる。