前回の記事で、
健康寿命を迎えるまでの十数年(僕の場合)を、
自分が本当に居たい場所で、楽しく弾けながら、
やりたいことだけを、思い切りやって生きるのだ、
みたいなことを書いたが、読者の方々はたぶん、
香港さんはいつも、今この瞬間に全てがあり、
永遠の愛を体感して、兄貴に全てを捧げているのに、
どうして〝泣いても笑っても十数年〟などと、
まるで時間があるかのようなことを書くのか、と、
不思議に思われたかもしれない。
しかし僕にしてみれば、これも今の中の出来事である。
その時の今、徹子の部屋を見たその瞬間、紛れもなく、
確かに僕は、泣いても笑っても十数年、恐れることなく、
もっと大胆に人生を生きていこう、と感じたのだ。
ちゃんと今この瞬間に、この思いは顕われ、
赦され、報われて、跡形もなく消え去っていっている。
そこに何ら、罪悪感も、自己否定も、存在しない。
なのに、流線型の時間なんて存在しない、
十何年後の未来なんてない、今この瞬間しかない、
という究極の真理を、現れ出た想いに当てはめ、
それは間違っている、と否定しようとするのは、
あまりにナンセンスで、愛に欠けていると思うのだ。
時間など無いのに自分はまだこんなことを考えている
という思いから自分バッシングが始まり、
そこから罪悪感が生まれる。
何度も言うが、どんなことを思ったっていいのだ。
今、結果としての想いが上がってきた時点で、
もうそれは終わっている。
その智覚があってはじめて兄貴に捧げることができる。
そういえば、僕が中国に留学していた頃、
友人の故郷である南京の寺院を訪れた時の話だ。
そのお寺に隣接する市場で、一人のお坊さんが、
果物屋の店主と大声で喧嘩しているのを目にした。
なんでも、梨を買うのに重さをごまかされた、とかで、
そのお坊さんは大変な剣幕で怒っている。
すると友人が、あのお坊さんは、
悟りを開いた大変に徳の高い高僧なのだ、
と耳打ちしてくれた。
たかが、梨の重さを誤魔化されたくらいで、
悟った高僧があんなにも怒るものだろうか、と、
当時の僕は不思議に思った記憶がある。
しかし今は、それで完璧だった、と解っている。
このお坊さんは、その事実を智覚しており、
故に、自分の想いにも、何にも関わっていない。
もちろん、怒るのがいい、という話ではない。
問題は「それは自我だ、だからなんとかせねば」
という自動反射的な解釈にある。