最近、ゲイリーの4冊目『イエスとブッタが…』の中で、
アーテンパーサが言っていた(たぶん)
〝見過ごす〟ことが日常になってしまっている。
父の形見の腕時計がどこを探しても見当たらなかった。
この腕時計は、20年くらい前に僕が香港で購入し、
父に贈ったもので、そんなに高価なものではないのに、
父は「息子からもらった」と言って大切にしてくれていた。
父の死後は僕が身に着けていたのだが、
普段から腕時計をすることに慣れていないせいか、
どこかにひょい、と置き忘れてきてしまったのだ。
部屋中をあちこち探しているうち、あることに気づいた。
「オレ、いま、なんにも気にせず、ただ探してる!」
焦りもなければ、やっちゃった感もない。
父の形見を失くしたことを母が知ったら何と言うだろう、
みたいな後ろめたさも全く出てこないのだった。
なんていうか、
腕時計がなくなったことを自分が知った時点で、
それはすでに結果として完結しており、
終わっていること、として捉えられている。
「うっ、ヤバい、やってもーた!」
という自動反応の後に立ち上がってくる
〝なんやかんや〟が嘘だと心底解っている感じ。
腕時計が見つかっても、見つからなくても、
その事実を知った瞬間に、その時の結果が起きており
それで完結している。
何かを知った時点で、それは起こってしまっており、
過去になっているのだ。
もっと言えば、今この瞬間でさえも過去だ。
だから、個人の自分ではどうすることもできない。
もしできることがあるとすれば、
「うわ、ヤバ!」の後にやって来た〝なんやかんや〟を
ただ、何の解釈も挟まず見過ごすだけである。
で、ふと思い立ち、
ゴールドジムの高槻店に電話をしてみた。
「SEIKOの腕時計ですか。お預かりしておりますよ」
だって…。
「うわっ、どうしよう」が出てこないかわりに、
「うわっ、助かったあ」も立ち上がってこない。
それから丁寧にお礼を言い、僕は電話を切った。