👆 昭和レトロな近所の喫茶店に最近入り浸り
訪れる客もどこか昭和っぽい
ここ二日間、朝から晩まで、ずっと小説を書いていた。
日本語で書いてから中国語に翻訳するのだが、
中国語へ直す時点で、こっちの表現の方がいいな、
と思うと、中国語の表現に合わせて日本語の方を
再度書き直したりするものだから全然進まない。
それでも、登場人物たちとすったもんだやりながら
表現してゆく時間は、とっても幸せなひとときである。
👆 いまどきの喫茶店、には珍しく灰皿アリ
創作しながら、時々アニータ三昧の日々
みんな、何かしら表現をしながら生きている。
お母さんは子育てで、筋トレしている人はボディで、
接客業の人は笑顔で、表現者として存在している。
自分には何も表現するものなんかない、と言ったって
その髪型、その顔、その服装、ですでに表現している。
なのに、こんな表現ではだめだ、とか、
あの人のパフォーマンスに比べると自分は…、とか、
逆に、別に何かを表現しようなんて思ってないし、
というふうに、ハッキリ自覚はしていないにせよ、
ゆるーいダメ出しが意識の底を流れていたりする。
僕も、自分の考えや都合で小説を書いていた頃は、
必ず途中で行き詰まり、最後イラっとして全消去、
みたいなパターンの繰り返しだった。
しかし途中から、ストーリーよりも、
登場人物のキャラ設定を重視するようになり、
彼らのキャラに即した表現に任せきって書いていると、
やがて彼らが勝手に動き出し、何もしなくても、
思わぬ方向へと物語が展開していくようになり、
ちゃんと最後は収まるところに収まってゆく。
それが、台湾の出版社の目に留まるところまで、
運ばれていったりするから面白い。
何が言いたいのかと言うと、誰に何を言われようと、
あなたのその表現のままで何の問題もないのだ、
ということである。
人の目を気にしたり、人に合わせたものではない、
あなたのしぐさ、声、表情、髪型、服装、しゃべり方、
行動パターン、好きなものや場所、などは、
作者(神)によって完璧に設定されているものだ。
だから、なにも変える必要なんかない。
ていうか、自分ではなにも変えられないのだ。
そのままの表現に即して動いてゆけば、
大どんでん返しアリ、全く違う自分になっちゃったアリ、
想いもよらない場所に来ちゃったアリ、の、
大フィナーレへとたどり着く。
作者の僕が保証する。(ってお前誰やねん!)
どこへも辿り着かない(ように思える)のは、
自分を変えようとするその無駄な努力のせいである。
(※べつに辿り着く必要などないのだが…)