新宿で一夜を過ごしたあくる日、
浜松町のクリニックに行ったら、
なんと、クリニックが閉まっているではないか。
このとき初めて、今日が日曜日だったことに気づいた。
僕は今日が月曜日だ、と勘違いしていたのだ。
ということは、
クリニックの予約は明日というこいとになる。
もうこのまま残りの予定を全てキャンセルして
大阪へ帰ろうか、とも思ったが、違う気がした。
結局、有楽町にホテルをとり、
東京でもう一泊することにした。
で、今度のホテルは、
ラウンジでコーヒーやジュースが自由に飲め、
スナックやお茶漬けも自由に食べられる、
スタイリッシュで清潔なホテルだった。(爆)
夕方、有楽町で約束していた友人と会い、
夕食をしながらおいしいお酒を楽しんだ。
なんで今日が日曜だと気づかなかったんだ、
なんで、ホテルたてしな、なんかを予約したのか、
などという思考は一切起きなかった。
なぜなら、そのことが起こった当時の自分には
何の問題もなく、今、この瞬間、
有楽町にいる自分にも何の問題もないのだから…。
あくる日、クリニックへ行き、帰りの新幹線の中では、
ずっと、見えるもの、聞こえるもの、感じるもの、
の五感に任せて過ごした。
僕の場合〝聖霊のガイダンスを聞く〟という表現が
あまり好きではなく、五感に任せる、の方がしっくりくる。
五感に触れて立ち起こってくる意識の反応を、
自分を通さず全て兄貴に捧げる、と言う感じか…。
聖霊のガイダンスを聞く、ガイダンスに従う、だと、
そこには、ガイダンスを聞いたり、
ガイダンスに従ったりしている〝自分〟が、
どこまでも立ち上がってくるからだ。
(※これはあくまで、僕の場合は、である)
そんな感じで、
五感そのものが兄貴そのものとなって、
何もせずに全ての想いを相手にせずにいると、
あらゆる反応は自分の中だけで起きている、
もっと言えば、
相手の何かに反応して起きてるのではない、
ということが明確になってくる。
例えば、あの時、あの人からあんなことを言われて
すっごく傷ついた、と、
自分の中でものすごい反応が起きていても、
相手はその出来事を全く忘れてしまっていて、
ハーイ、と何事もなく平然と接してきたりする。
そんなとき、
〝相手に対して〟ものすごい怒りを感じたりする。
しかし真相は、自分の中だけで反応していて、
自分の中だけで相手を責めながら問題にしている。
そして、今後僕は、そういったものと真剣に向き合い、
本気で故郷へ戻る準備をするのだな、と思った。