👆髪が伸びすぎてしまったので
明日バッサリ切るつもり
僕の場合、
一旦、自我が完全に落ち切り、本当に自分など無く、
無限の全体(実相)からくる愛そのものに触れた
確固たる〝体験〟をして以降、
自分の意識の中で起きている考えだけが問題で、
本当は向き合うべき過去の罪悪感などなかった、
ということが、明白すぎるくらい明白になった。
そのため、
よく奇跡講座のコミュニティなどで行なわれている
過去の出来事からくる一つ一つの罪悪感を見つめ、
向き合いながら赦してゆく、という作業は、
いまのところ、僕には当てはまらない。
なんていうか、神の使者のゲイリー風に言うならば、
玉ねぎの薄皮をひとつひとつ剝いてゆく、というよりも、
玉ねぎの芯をガッと抜いたら、全てがほどけてしまった、
みたいな感覚である。(※しつこいが、僕の場合である)
例えば、
あの時、あの人からこんなひどいことを言われた、
数年前、彼からあんなひどい仕打ちをされた、
逆に、昔、自分はとても酷いことを誰かにしてしまった、
というようなことからくる罪悪感が、
何かの出来事に触れて湧き上がってきたとしても、
過去から現在まで継続している〝自分〟など無く、
瞬間瞬間でその当時の自分はすでに消え去り、
瞬間瞬間が別の自分であることを智覚しているので、
その当時のことを引きずっていない。
たとえその過去の出来事がどんなに悲惨なもので
あっても、その当時の瞬間瞬間で、やっぱり、
きちんと赦されきって終わっていっている。
自我とは〝過去を引きずる〟ことである。
罪悪とは引きずった過去で苦しむことである。
その当時に受けた仕打ちや、その当時に生じた考えを
今も有るかのように引きずり〝考えている〟ことである。
別の言い方をすれば、自我とは、
その当時の自分と今の自分は同じ人物で、
その当時の自分が今もここにいる、
と思い込んでいることから生じる幻想である。
5分前の私は、今、もういないし、
3分前に起きたことはもう過ぎ去っている。
あるのは、今この瞬間のありさまだけである。
そして、兄貴はそこにいる。
多分、奇跡講座の一部のコミュで行なわれている、
神に対する深い罪悪感や自己憎悪を、
信頼できる兄弟たちとシェアし合いながら、
表に出して終わらせていゆくというような実践も、
この引きずってきた数々の想いを浮上させ、
昇華させてゆくためのものなのだろう。
あの時の自分が今もまだここにいる、
という考えだけが問題だったことが明らかになれば、
今ここにあるものが大手を振って戻ってくる。