おととい、実家がある高槻から南森町へ戻って来た。
やっぱり鉄筋コンクリート造りのアパートは暖かい。
実家は木造一軒家なので、暖房をつけていても、
家全体が暖まらないので、夜とかは特に寒く感じる。
しかし、実家にいた学生時代も、冬は今と同じように、
底冷えがしていたはずなのに、なんであの頃は、
まったく気にならなかったのかが不思議だ。
バブルの頃は、真冬でも遊び回っていて、
真夜中に帰宅したりしてたのになぜか寒くなかった。
時代も華やいでいたし、若かったのもあるのかな?
実家には2泊したのだが、これが限界だと感じた。
母はおせちを用意したり、カニ鍋をしてくれたりして、
いろいろもてなしてくれるのだけれど、なんていうか、
親子ゆえに、ちょっとしたことにイラっときてしまう。
テレビを見ていて、この人誰やったかな、と訊かれ、
誰々だと答えると、大声で「ちがうっ!」と否定されて
ムカッとしたり…。(訊くな、ボケッ、である)
こういった、これ以上でも以下でもない、
ありふれた小さな親子間のイラッムカッの連続に、
やっぱり離れて暮らしてよかった、と思ったりする。
こんな時、ハートの愛そのもので在れば、
誰とどこに居ようと平気なはずなのになんで?
と以前の僕は思い、自我で母を見ている、と、
ひとり深刻になって兄貴に祈ったりしていた。(爆)
ノー!ノー!ノー!
イラッムカッが出てきた時は、もう出てきた後なので、
自分ではもう、どうにもできない。
というより、これは、勝手に出てきているものであり、
自分でムカッとしようと思ったから出てきたのではない。
実体のない感情が、梅干を見て唾液が出るように、
反射的に出ているだけなので、責任などないのだ。
放っておけば、次の何かが(自動的に)起こって、
このイラムカは消えてゆき、次の瞬間には、
母と笑いながらカニを食べていたりする。
実家を出ようと思ってそれを実行したなら、
もうそれで〝済〟なのに、これは自我のナンチャラで、
母を赦せていないからナンチャラで、とずるずる思う
それこそが自我である。
とにかく、今起きている様々な事に反応している自分と
兄貴や、実相や、愛の想いや、ましてや神とは、
何の関係もなければ、何の責任を負う必要もない。
それよりも注視すべきは、
様々な感情や、物体や、出来事を立ち上がらせている
その大元になっている愛の流れの方なのだ。
(うまく表現できなくてスンマセン)
というわけで、また寒さの話から脱線してしまった。
とにかく今年は、
あらゆる想いをずるずる引きずることなく、
この瞬間の大好きに開いて過ごしてゆく覚悟である。